自己観察への見切りのタイミング

ここ2週間ほど左手人差し指の調子が悪いため、楽器を弾かないようにしている。なかなか治るのが遅いが、これはどうしても日々の生活の中で人差し指を使わざるを得ないからだろう。

自分の仮面即興を動画に撮った。自分の体の良くない部分がよくわかる。次の本番までにもっと強化をしなきゃいけないとはっきりわかる。やはり記録はちゃんとしておくべきだな。

やるべきことをやる際に、自分の感情やモチベーションをあてにしすぎると、逆に手が進まなくなる。よく人間は悪事に手を染める際に感情を殺すが、実は良いこと(もしくは普通のこと)をする時も感情に囚われない方が良い。「良いことをする時」というのは正確に言うと、「良いことを行いつつある時」と言った方がよいかもしれないけど、要は何かを行う前にどこかで感情に対する観察に見切りをつけないと、何事も行うことができなくなる。これは語りの稽古をやっている時などにもちょっと感じたことだ。

この見切りのタイミングをいつ設定するかを見極めるのが今の自分の課題の一つだ。立ったり歩いたりすることは、いかにも安定しているような気分になってしまうけど、実際体の中はとても流動的で、常にいろんな力が拮抗している結果として体勢が生まれている。精神においてもおそらく同じで、そういった意味での均衡をいつ破るかというのが見切りのタイミングでもある。日々勉強すべきことがばかりだなあ。

久々の語り公演の稽古

2020年に遠藤さんが亡くなって以降、横浜ボートシアターは語りの公演を久しくやっていなかった。新型コロナウイルスの流行、船劇場の修繕、2度に及ぶ追悼公演などのヘビーな出来事が次から次へとやってきて、小さい公演をやっている精神的余裕がなかった。今も本当は落ち着いているわけではないけど、大きな公演をいますぐやるという状況ではないため、ようやく昔のような語りの公演を開催する余裕ができた。

事務所で行う稽古は昔のままで懐かしさが蘇ってくるが、昔のままというわけではない。稽古に参加するメンツが違うし、今は演出が紗矢さんである。そして、僕自身も語りの稽古を受けている。同じような出来事でも、決して何から何まで同じにはならない。それは舞台の本番が毎回違うのと似ている。

語り公演の稽古ができるようになったとは言っても、それは余裕ができたというわけではなく、確定申告などの雑務をはじめ、水面下では相変わらずたくさんの仕事がふりかかっている。気の遠くなるような気分になりながらジミヘンを聴いていると、平衡感覚を失ってどこかにトリップしそうになる。

今日の稽古の最中、図らずも最期に近い頃の遠藤さんの話になった。思い出すといまだに少し辛いものがある。人の死というものはいつまで経っても慣れない。死というものがそれだけ特別なのだ。自分の死というものはそういう意味では逆に特別ではない。死という形で他者を失う経験の方がよっぽど空虚である。死という形での他者の喪失は、逆説的にもっとも他者を感じる瞬間の一つである。

自分にとって、そのように他者に対する強烈な感覚を呼び覚まされる瞬間はもう一つある。舞台の本番に立った時だ。これは昨年役者として舞台に立って実感した。本番中は舞台から客席はほとんど見えないのだが、それにも関わらず舞台上の役者は観客を強烈に感じ取って芝居を演じる。この時、役者はおそらく言語を絶するほど深い体験をしているが、果たしてそのことが自分をいくらか変えてしまったかまではわからない(よくよく思い出してみると、似たような感覚は人生の節目で何度かあった。しかし、舞台の本番が有数の出来事であることは確かだ)。

さて、最初に戻って語りの稽古のことになると、語りの稽古は本番並み、または本番以上に緊張する。聴いている人の顔がはっきり見えるし、腹の座り方が本番よりも弱くなりがちだからだ。本番はもう絶体絶命な状況をいわば押し付けられているので逆に問題ないのだが、極限状況まではいかない状態で他者と対面し、語るという稽古のあり方はいまだに慣れない。毎週土曜の語りのワークショップの時もめちゃくちゃ力が入ってしまう。今までなぜ緊張してしまうのかわからなかったが、今この文章を書いていて、本番と稽古では他者の性質が自分の中でちょっと違うらしいという手がかりを得た。稽古でも語るときは一人だが、ダメ出しも入ればやり取りもある。その中でどう切り替えて的確に語っていくか。そこは結局自分の責任として引き受けなければいけない。

この文章を書いている時もそうだけど、一人になった時にその人間がどれだけ力を出せるか。遅まきながら、今年はこのことにこだわってみたい。

Suno AI雑感

歌詞とジャンルを入力すると、自動で歌付きのトラックを生成するSuno AIというサービス、無料でお試しできるのでちょっと使ってみた。

Boosa nova with classical instrumentsみたいに、複雑にジャンルを指定したらイマイチだったが、1ジャンルのみでやってみたらそれっぽい感じになった。素直で熱心に勉強するが、勘の悪いが作った感じとも言える。

今のところ、このAIでできるメロディとアレンジは、体裁こそ整っているけど個性がなかったり、文脈的に微妙な音を鳴らしてくることがある。そういう意味で、作曲家として仕事をしている人の本当の意味での脅威ではまだないと思う。

今後どうなるかを想像してみたけど、たとえばこれが極まってハイレゾ音質でも遜色ないくらいの音源ができたとする。それは当然ビジネスプラン的なやつで月額3000円とかで使えるサービスになると思う。一発当ててやるみたいな人がこのビジネスプランに大量に押し寄せるだろう。あるいは、AI自動生成に特化したレコード会社とか、音源制作会社が出てくる可能性もあるだろう。

あるいは歌詞についても、今後人間に近いようなものを生み出すサービスが登場してくる可能性は高い(今もSunoには歌詞生成機能があるけど、もっとクオリティ高いものということで)。AIが作った歌詞をAIで作曲させ、良・不良の選別をしてマーケットに出す。

ここまできたら、人間の創造性は社会的に大いに疑問に付されることになるだろう。しかし、では創造って一体何よ、とも考えてしまう。AIが出したものに人間が手を加えるのだとしても、それは人間にとっての創造だろうか。外から見たら両者は区別ができないかもしれないが、作る人間の内面としては全く違う経験になる。

さらに、AIが動画やPV、公式SNSなども自動で運用するようになり、マーケット上のものが全てAI出力になったとしたら?その時、目に見えるものが全てAIであることを知りながら、人間はマーケットに出るものに魅力を感じるのだろうか。または、AIの持ち主はAI出力と悟られることを恐れて、AIであることを隠すようになるだろうか(AI出力なのに人間が作ったと偽ったら罪に問われる時代が来る予感もある。楽観的だけど)。

生身の人間の最後の居場所はライブになるのだろうか? しかし、物理的存在としても、人間と区別のつかないアンドロイドが、AIプロデュースによるライブを行ったら? AIの完璧な立ち回りの陰で、人間のパフォーマーですら、ひっそりと役目を終えるのだろうか?

だが、AIを主体的に動かすのが人間であったとすれば、使う側の人間は音楽の技術や知識には詳しくないとダメなんじゃないかとも思う。また、身体的に自分が音楽とどのように向き合ってきたかということも問われるだろう。作るプロセスは変わるかもしれないけど、本質的なところは結局変わらないんじゃないかっていう気もするなあ。

映像チェック

『新版 小栗判官・照手姫』前半の映像チェック。一人では絶対に耐えられないので、紗矢さんに付き合ってもらい、無事最後まで見ることができた。一度見れたから、次は多分一人でも大丈夫。そろそろ動画用に録音した音声もチェックしなければ。

今は小さい仕事をコツコツとこなしつつ、勉強しつつ、構想を練る期間。これは一種の猶予期間と自分は感じるが、とはいえ遊ぶ時間があるかといえば全然ないので、見方を変えると忙しいとも言える。しかし、現在の自分を忙しいとは思っていない。心に余裕があるからだろう。

ここ1〜2年を振り返ってみると、仕事の充実がいき過ぎて、忙しいと感じたケースが多かった。いくらでも仕事をしようとして限界が来る時もあれば、単純にやることが多過ぎてキツくなったという時もある。さらには、役者的な訓練を通じて、自分の意識の深いところを感じなければならなくなった時、今までやっていた仕事が我慢できなくなり、実際の稼働率以上に「忙しい」ように感じてしまった時もある。

「忙しさ」の感じ方が変わってきたことを踏まえると、今回の『新版 小栗判官・照手姫』を通じて生き方が変わってしまったとは言える。ここ1年くらいはその変化に対応しきれなかった感じがするので、これから先は、もう少しバランス良く生きることを目標にしようと思う。そのためには、生活のリズムが大事だな〜などと漠然と思っている次第。

わからないなりに何をするか

今週末は地味に色々予定が入ったり、ちょっとした連絡があって慌ただしい。別に今週末に限った話でなく、楽器の練習がじっくりできる日はそう多くない。曲をじっくり作れる日も同様。演奏にせよ作曲にせよ、できることは一音一音の確信を高める作業だけ。

基本は、ある演奏をするときに最低限の力を知ること。あるいは、最低限何をすれば曲が成立するかを見極めること。同時に、目的を達成するために必要な動作を想像すること。これらをせずに練習・作曲を始めるとドツボにハマる。

今、インドとアフリカの本を同時に読んでいて、ふとこの二つの区別がきちんとついたのは何歳くらいの頃だったかを思い出そうとしてみた。少なくとも、小学校の低学年くらいまではよくわからなかったように思う。

それ以外にも、区別がつかないことはたくさんあった。今だってわからないことばかりな上に、新しい出来事や概念は日々泡のように生まれては消えていく。まともに流れに乗ろうと思っても乗れるわけがないのは明白だ。であれば、演奏や作曲と同じように、確信を持てることを少しずつ積み上げていくしかない。しかし、僕は音楽以外のことに関してはそのことをサボり気味である。いや、音楽ですらかなり怪しい……

ギリギリまで考えて迷うことが良くも悪くも自分の特徴だと思うので、せいぜいこの先も悩むことにしたいが、悩みといえば、人生何を優先するかはとても難しい問題だ。十年くらい前だったら音楽優先だろ、と秒で答えられたけど、今の自分の振る舞いを客観的に捉えると、YBTが最優先事項だと思う。なぜそういうことになっているかを、今この時期にじっくり考えて来年に備えておきたい。

『インド神話』

やらなければいけないことがあまり消化できてないにもかかわらず、あまり焦っていない。ここ数年困難が降りかかり過ぎて麻痺していると思う。結局後で自分の首が絞まることになるので、いい加減手を動かさなければ。

一方で、今は一年のうちでもっとも音楽に対してじっくり取り組むことができる期間であることも確か。音楽を最優先にして、やらなきゃいけないことは尻に火がついた時に勢いでやってしまおうという作戦もないではない。

最近『アフリカの白い呪術師』を読んで面白かったので、アフリカ神話に関する本を読もうと思ったが、あいにく図書館カードの有効期限がちょっと前に切れており、新たに発行してもらうために図書館に行くのもなんか億劫で、手元にあった『インド神話』を読み始めた。

古代インドの神様には時代に応じて地位の変化が色々あったようだ。その辺の流れは読んでいてもさっぱり頭に入らない。しかし、地位の変化にはどんな要因があったのかが気になって、読みながら色々想像はしていた。シヴァ派とヴィシュヌ派で争ったとかもありそうだな〜、とか。インドの神概念ってどんなものなんだろう思う。神のポジションが動的だった時代には、多少氏神的な色彩もあったのだろうか?

3人のアスラが苦行をしてブラフマーを満足させ、願いを叶えてもらうという説話がある。その時、彼らはブラフマーに「私たちは1000年間にわたって悪行を続けるが、その後自分たちはシヴァに殺されるでしょう」と何故か最終的な死を受け入れた上で願いを聞き届けてもらっていた。悪役のくせに妙に物分かりが良く、不思議である。これをメタ的に読めば、元々アスラたちはそんな物分かりが良いキャラ設定ではなかったが、『マハーバーラタ』特有の運命観を強調するため、後からこの物分かりの良さを付け足したのではないか、と推測できそうだ。しかし、これを頑張ってベタにそしてアクロバティックに読み込む方が、実は面白いのではないか。そんな予感を覚えつつ、早くこの本を読み切らなければと思っている。

2021年の自分の仕事を振り返る

昨年の上半期は横浜ボートシアター『白い影絵〜石原吉郎「望郷と海」および詩篇より〜』の音楽をはじめとした様々な業務が大半。

まず『白い影絵〜石原吉郎「望郷と海」および詩篇より〜』だが、昨年12月に作品の創作自体がかなり行き詰まり、重苦しい雰囲気で稽古をすることが多かった。加えて新型コロナウィルスの感染者数が増加して、1、2月中の稽古は中止となる。お世辞にも「稽古は順調です!」と広報できるような状況ではなく、鬱々と年を越す。確かこの頃にコロナの状況を鑑みて事業の実施年度を跨いでもOKということになり、公演が3月から6月に延期になった。

その延期も手伝ってか、1月、2月と間をあけることで逆に落ち着いて客観的に作品を眺めることができるようになった。この時期に紗矢さんは船劇場で演技エリアの変更を試行したり、スクリーンに映すフィルム画の準備を始めた。そういった作業の手伝いが多かったせいもあり、自分が音楽的に何を準備したかはあまり覚えていない。

そういえば、この時期に奥本くんの『操り剣舞』や、のちに10月にちゃんとリリースすることになるあめたちの楽曲を仕込んでいた。『操り剣舞』は、音楽的には2〜3回合わせただけで撮影で全くのノーダメージであったが、あめたちは歌を録音させてもらった後に凄まじく苦労し、横になっても動悸で寝られず、心身の不調を4月頭くらいまで引きずっていた(以降、秋くらいまでは本気を出して集中モードに入るのが怖かった)。

そんな最中に『白い影絵』のチラシの作業が入り、これもかなり苦労する。今までは作品の全体像がはっきり見えたものしか取り扱っていなかったが、今回は結末がまだ見えきっておらず、ビジュアル的要素も試行錯誤の最中であった。僕は基本的に最初から完成形を下書きすることはできない人間なので、手を動かしながらチラシのビジュアルを作る。写真を原型がなくなるほどいじったのは随分久しぶりだった。

6月、晴れて『白い影絵』の本番を迎える。非常に好意的な意見もあれば、酷評する人もいた。石原吉郎の非常に硬質な手記と彼の難解な詩から出来た台本であるから、観る方にかなりの負荷がかかるであろうことはよくわかる。創作する側としては、詩が生まれる瞬間を表現するような舞台でとても面白かった。詩人というのは、巫女的な霊感がないといけないんじゃないかと思う。凄まじく暑い船内でシベリアの舞台が繰り広げられ、やる方も見る方も頭が混乱しそうな本番であった。

6月20日に説経節政大夫師の『愛護の若』最終回に演奏で参加した。『白い影絵』本番直後で、自分の頭の中も真っ白。残念ながら、あまり記憶が残っていない。7月にも、もう一度政大夫師の演奏に伴奏で参加。政大夫師が萩原朔太郎の詩につけた歌は密かな人気がある(この時期に、半年後、説経節についてむちゃくちゃ考えることになるとは正直思ってもみなかった)。

7月から8月にかけて『白い影絵』のDVD・配信映像の編集、パッケージ製作、宣伝などをやっていた(この時期に練習できたのは、後々のことを考えるとかなり良かった)。あとは、夏は船劇場が使えないので、ぼーっと楽器の練習ばかりしていた。

9月に、これから数ヶ月の間、1ヶ月ごとに一つ一つ目玉を作って宣伝していこう話を劇団としていた矢先に、船劇場の修理勧告が劇団に通達される。ここから怒涛の日々が始まったが、それでも9月から11月までに考えていた予定は大体クリアできた。今思えば結構頑張ったなと思う。

さて、この時期に僕は横浜ボートシアターの劇団員になることを決めた。劇団員になったからといっても、やってることは結局何も変わらないが、気持ちの問題として逃げ場を塞いだのである。客観的に見れば大きな転機だが、それよりも船劇場の今後のことの方が気にかかって、現在でも劇団員になったという現実感がない。この現実感のなさは、通過儀礼が廃れた現代人特有の、のんべんだらりとした時間感覚と言えるだろう(これを逆説的にいえば、通過儀礼がないと人間は現実感が保てないのではないかという仮説にもなるが、果たしてどうだろうか)。

年末くらいからだろうか、ストレッチを意識的に行うようにしている。始めた理由は、自分の姿勢の悪さが体の硬さからきているように思えたためだ。また、右の股関節がうまく使えないことからくる、左右の体のアンバランスさも改善したかった。恥ずかしいくらい硬い体であるが、やればかなり効果が出るので継続したい。

こうやって書いてみると、生々しい思い出や肌感覚が想起されて結構疲れる。これからはあまり溜めないようにして、少しずつ書いてはその時の感覚を供養してあげたほうがいいのかもしれない。

増殖するケーブルと紙の管理

音楽をやっている限り、紙とケーブルは年々増殖する一方。増えてくれと頼んだ覚えはないのに勝手に増えていきます。困ったものです。

寝言はさておき、特に今年はケーブルの管理が大変な年だったと個人的には言えそうです。長さ10cm強のパッチケーブルから、マイク用・映像用の長さ数十メートルのロングケーブルまで、気づけば色々な種類のケーブル相手にしました(すっごく長いケーブルほど8の字巻は意味があると痛感しました)。

ケーブルは超ロングのものでなければ、100均のファスナー付きのA4サイズ(もしくはそれ以上の大きさ)の袋に入れて管理しています。同じく100均で白ガムテープを購入し、油性マジックでタイトルを太書きすれば、視認性よく気持ちもスッキリします。白ガムを使うアイディアはギタリストの山口和也さんがYouTubeでやってるのを真似してみました。船劇場の工具整理の時もこの方法を利用させてもらいました。これでかなり使いやすくなったはず……三津さんが船劇場にいらっしゃる時のリアクションが楽しみです。

ケーブルに話を戻すと、ある程度の長さまでは上述の方法で問題ないですが、超ロングのケーブルはちょっと悩みます……一般的な劇場の現場だとザルに入れてるっぽいですが、船は湿気が多いんで密閉されたところに入れたい気もします。ザルにラップをするとかいうバカバカしいアイディアも一瞬浮かびましたが……要研究であります。

年末に向けて、あるいは年始の公演に向けて、まだまだケーブルと機材の整理は続く。

さて、紙の方ですが、こっちのメインは台本と譜面ですね。あとは確定申告関係の書類と機材の説明書。スキャンしていつでも捨てられるようにできているものもありますが、実際には捨てづらい(捨ててはいけない)書類が多いものです。紙の整理は梅棹忠夫先生の『知的生産の技術』で紹介されているフォルダ分類法を取っています(最初にフォルダのことを知ったときは、フォルダってPC上の概念だけじゃなかったんだとカルチャーショックを受けました)。これだと、とりあえずタグづけされたものがどこかにあるはず、という安心感があるので、心置きなく保管することができる点がすばらしいです。そんな気持ちでいたせいか、最近までは年代も内容もかなりバラバラに保存してました。しかし流石に数が増えてきた現在、種類もしくは名前順などで管理し直そうかなと思い始めています。

10月3日『創作影絵人形劇「極楽金魚」』振り返り

ずいぶん久しぶりの更新です。

つい先日(10月3日)久しぶりの公演『創作影絵人形劇「極楽金魚」』があり、その余韻も覚めやらぬ中、並行して動いていた次の横浜ボートシアターの企画『白い影絵』が本格化します。次の企画についても色々書きたいんですが、今回は『創作影絵人形劇「極楽金魚」』のことについて、スタッフ的な観点から振り返ります。

本公演は初めてのライブ配信を行ったのですが、その際のテクニカルな部分の御膳立てを、カメラの映り方の設定(露出とかホワイトバランスとか)以外は全て僕が行いました。これを無事に乗り切るのが無茶苦茶プレッシャーのかかる仕事でした。

当初(配信クオリティ的な意味で)無事にやり通せる自信がなく、無料配信が可能か劇団と相談しました。しかし、劇団からは無料でやるのはNGと返事。今思えばその決定があったからこそ今回の成果が得られたわけですが、仕込みと動作チェックが終わるまで、毎日頭が沸騰しそうなくらい悩みながら色々考えてました。そして諸々の事情によりなかなか必要な機材が買えず、本番が近づけば近づくほど音楽よりも配信に関わる作業で忙殺されるという始末……(幸い配信の反響は悪くなかったので、その甲斐があったかなと思います)

一番不安だったのはWi-Fiの強度。上り無制限の強そうなルーターをレンタルするのはいいけど、果たして公演中無事に皆様にお届けできるのか? 結果はご覧になった通り。前半微妙にコマ落ちが発生していたので、配信後、会場での撮って出しを視聴可能にするサービスは妥当かなと個人的には思いました。ライブ配信のクオリティに関しては、小さい規模だとこれが限界かもしれません。もっと予算があればさらに高価な機材を使って安定した配信ができるような気がします。

今回、配信への音声入力・録音に8ch入力のMTRを使用しました。しかし、その仕様をじっくり頭に入れる時間がないまま会場入りしてしまい、なんとなくな感じでスイッチャーに音を突っ込むという気持ち悪い使い方になってしまいました。今時なんでMTRにしたかというと、PCでの録音に対する漠然とした不安があったためです。会場の船は電源が弱く、時たま電圧が100Vよりもかなり下に落ちます。そうなったときAI/Fが異常動作しないかかなり心配でした(過去に一度、船ではない会場で本番数時間前にAI/Fが低電圧でぶっ壊れ、ダッシュで代替品を買いに行った苦い思い出があります。あれ以来、持っていけるスペアは可能な限り現場に持っていくようになりました)。電源の弱いところではアダプターからではなく、PCからバスパワーで電源が取れるインターフェースの方が安心ですね。と言いつつ、今自分はアダプター経由のやつしか持っていない。次の本番までには買い換えたいところです。

なお、ライブ配信ではなく音楽の方での細かいトラブルもありました。今回本番中に比較的電流を使うエフェクター(Eventide Time Factor)が少なくとも2度ほど電源が落ちました。幸いにもそのエフェクターが目立たない箇所での事件で助かりましたが、派手に使うシーンもあったのでその時に落ちなくて良かったと心から安堵しています(もうちょい電流を使わずに済むエフェクターに変えた方が良さそうですね。Time FactorからDD-500あたりに変えると思います)。

さらに余談ですが、今回足元のエフェクターの大半に電源を供給したのは、VITAL AUDIOのバッテリー付きパワーサプライでした。これが大当たりで、バッテリー付きでなかったらおそらく何回も音がブツ切れてたんじゃないかと思います。本番中も電源タップから電源は取ってたものの、実は全然電圧が足りてなかったらしく、家に帰ってコンセントに挿したら即座にバッテリーの充電が始まり、残りを見たら2〜30%くらいになってました。これまた本番中バッテリー切れにならなくて良かった……

ところで、今回は本番前の二日間、『創作影絵人形劇「極楽金魚」』の動画作品としての撮影も敢行。「遠藤さんの一番年下の友達」田中千里くんと、「田中くんの友達」我妻天湖くんがすごく頑張って撮影してくれました。これから僕も参加して編集するので楽しみです。

オーディオ・インターフェースよもやま話

OBS Studioという配信用のソフトウェアが僕のオーディオ・インターフェースを認識しない。しかもどうやらその挙動不審の根は深く解決策がなさそう。ということで、オーディオ・インターフェースの新調を目論んでいる。

しかし何を選ぶかが問題で、サウンドハウスを眺めていると乾いた笑いしか出ない。今自分が使っているのと同じMOTUの製品を選ぶのは何となく怖いし、UNIVERSAL AUDIOとかRMEとかApogeeは高いし……Foucusriteは以前使っててすぐ壊れたし……TASCAMとかどうだろう? 以前使ってた2×2のMIDI INが壊れて冷や汗かいたけど、マイクプリとしても使える点は非常に嬉しく、製品づくりの姿勢として好感が持てるそう考えると、TASCAMかな。しかし、Type-Cでバスパワーに対応してるのか微妙……あ〜難しい(とある事情によりType-C対応かつバスパワーであって欲しい理由があるのです)。

コロナのせいかわかりませんが、インターフェースの在庫が微妙に薄いし、今は手持ちの機材で何とかしのぐべきかもしれません。そう考えることにしてそっとブラウザを閉じよう。

こんなことを考えているのも、少しずつ企画が動いたり、動きそうだったりしているからなのでありがたいといえばありがたい。