生成AIで変わるものと変わらないもの

5月公開予定の『The Spirit of Yokohama』に関わり、劇団の映像をまとめている。扱う映像の量がとても多く、自分のちょっと古いPCではたまに落ちてしまうような心許ない状況だ。

とはいえ最近のAIによる文字起こし機能は信じられないほど便利で、インタビューの編集速度は飛躍的に上がった。その恩恵を少なからず受けているのではあるけれども、調子に乗って無理をしてしまったのか、昨日はPCではなく自分自身が熱を出してしまった。

様々な分野でAIの進化速度は凄まじく、ちょっとしたプログラミングだったら言葉でやりたいことを示すだけで実現してしまう時代になった。非プログラマーからすれば、こんなにありがたいことはない。しかし、今後、職業としてプログラミングに携わる人は上澄みだけが業界に残るようになるかもしれない。

音楽についてもAIの進化は目覚ましい。先日、AIが生成した現代音楽風ピアノ独奏曲をほんの少し聴いた。全体的な構成まではわからないが、ディテールのそれっぽさはかなり上がっており、一聴して人間かAIかがわからなくなるのは時間の問題だと思わされた。ポップス系統の生成AI、Sunoなんかもバージョン2では微妙だったが、今久しぶりに聞いてみたらディテールの解像度は相当上がっている。ただ、AIの生成音楽だという前提も相まって、既存の人気のある音楽の特徴をカリカチュアした音にも聴こえ、どこかグロテスクなものを感じた(しかしそれは流行ったものが即座に模倣される商業音楽の宿命の帰結とも言える)。

なお、Sunoなどの言葉による指定がベースとなっている生成音楽系AIのクリエイティビティというのは、いかに言葉をうまく使ってAIに望んだ音楽を吐き出させるかということにかかっている。音楽におけるクリエイティビティのうちには非言語的な部分が大きいと思っている自分にとっては、抵抗がある方法だ。しかし、テキストベースの生成AIは歌詞先で作る曲の可能性を探るには良いかもしれないとも思う。なお、ちょっと調べたら、音のサンプルを投入するといい感じに仕上げる生成AIもあるらしく、まだそっちの方が作り手側としては直感的に受け入れやすい。

Sunoで作られた楽曲を覗いてみると、すでに20万再生に迫る曲が多数存在し、現時点で曲へコメントをつける機能はないものの、今後コミュニティ形成に向けてサービスが舵を切る可能性は高いと思われる。Sunoがやらなくても、他のサービスがやるだろう。音楽は共同体と切り離せないものである。AI生成音楽にあっても、そのジャンルを愛好する共同体ができることだろう。

自分自身の経験に照らせば、サブカルチャー、カウンターカルチャーの音楽はそもそもメインの共同体と馴染めない者たちが集う空間であった。そういう意味で、そこに集まるものが意識していないとしても、「主流とは違うんだ」というその表現内でのみ通用する、ある種の政治性をうっすら帯びたものでもあったのかもしれない。だが、その主流との差異はうやむやになったように感じる。今や音作りやその他アレンジのノウハウの共有、さらにはメインストリーム側のサブカルチャー取り込みが進んだためだ。

生成AIが登場したことで、さらに音楽の共同体に変化が起こるかもしれない。ノーマルか、ベジタリアンか、ヴィーガンか、といったような倫理に基づいた棲み分けが起こるのではないか。まず、聞き手の中ではAIの生成音楽を受け入れる人、受け入れない人で分化が起こる。作り手の方でも同様の分化が起こるだろうが、それ以外にも制作段階でどの程度AIを使うかということにおいても主義主張が分かれるだろう。また、AIを使うか否かに関わらず、その過程を公開することがブランドになっていく可能性がある。なお、自分がもし創作段階でAIを使うとすれば、最終決定を行う前の参考アイディアを得るために使うということは有り得るかもしれない。

商業音楽の枠組みの範疇では、今後のトレンドはAIをいかにうまく操り曲を量産するかということに重心が移りそうだ。しかし、それはあくまで商業音楽の枠組みでの話であり、自分が本質的に大事にしたいのは商業的な部分以外の価値である。第一には創作という体験の主観的価値であり、第二には必要とする人へと届けることだと思う。そして、第三に、AIが人間の能力を超えても、なお人間は自由であるということを示すことだ。

最近行った美術館・博物館

気づいたら、自分にしては結構色々行っていたのでメモ。

北川民次@世田谷美術館

22年間メキシコに滞在し、現地の壁画などに影響を受けた作品を数多く残した画家。メキシコの祭りを題材とした絵、学生運動の絵などとても印象に残った。デザイン性と絵画性の狭間で描いている時期が特に面白い。

青岸渡寺宝物館

日帰りで熊野に行った時、たまたま見つけて入った。飛鳥時代、白鳳時代の小さい仏像など1500年前近い収蔵物が展示されていたせいか、平安時代のものを見ても「比較的新しいな」と思ってしまうほどの歴史的スケール。まっさらな空間に仏像や印を結んだ手などが配置された立体曼荼羅は特に印象に残っている。下記ニュースによれば「瀧寶殿を公開するのはおよそ50年ぶり。日本で唯一である金剛界立体曼荼羅を見ることができる」とのこと。かなり幸運な巡り合わせであった。

https://www.agara.co.jp/article/429878

遊行寺宝物館

昨年に引き続き、小栗の像を公開するとのことで見に行く。階段を上がって2階に上がる途中、踊り場で一遍上人の等身大と思われる彫像が展示室の入り口脇に置かれていた。近づいて顔を見るとかなり鬼気迫る顔つきで、さすが時宗の開祖と思わせる凄み。

入室してすぐ右手に展示されていた小栗の像は相撲取りのようながっしりとした体格で、様々に描かれている小栗の姿の中では作品のイメージにかなり沿っていると感じられる。

もう一つの目玉と言える岩佐又兵衛の小栗絵巻は、お上人たちや民衆が車を引く場面が開陳されていた。人物の生き生きとした描写と絵画的な完成度の高さ、保存状態の良さに感銘を受けた。時期によって開く場面を変えているらしいが、この場面の時期に見られて良かった。

江戸〜明治期の『小栗』本や歌舞伎の芝居番付などが多数展示されており、小栗が様々な形で想像され受容されていた歴史を伺い知ることができた。中には「照手」がタイトルになっている作品や、「外伝」と銘打ち、かなり筋が違っているように見受けられる作品もあった。

仮面絢爛@横浜歴史博物館

古代〜近世まで幅広く仮面を展示。展示の最初にお祭りの様子を記録した映像資料が展示されており、死後の世界を演じる千葉県の芸能が投影されていた。木や草に覆われた自然の舞台と、その環境でしっかりと映える衣装をまとったキャラクターの数々が非常に印象的だった。

スクリーンを離れ展示室の中に入っていくと、鬼面、伎楽系の面だけでなく、菩薩の仮面が結構多く展示されており、当時の仏教信仰の様子が窺い知れる。賽の河原の童子、罪人の面なども特徴的だった。伎楽系の面は、型が定まっているのでデフォルメの完成度がとても高い。近世の面だと鬼系の面のデフォルメが思い切っていた。

『新版 小栗判官・照手姫』含め、ここ数日のこと

横浜ボートシアター『新版 小栗判官・照手姫』2024年公演終了。多くの方々にお世話になった。村上さんには整体(脱力?)を、Sさん、Kさんはじめ多くの方々には宣伝を、Oさん、Kさんはじめスタッフの方々には仕込みやバラシを。他にも多くの方々の支援・協力によって初めて本番を迎えられた舞台であった。もちろん、出演者の皆さん、そして演出の吉岡紗矢、脚本・仮面の遠藤さんにも感謝。

『新版 小栗判官・照手姫』総監修、堀尾幸男氏の舞台模型展示に行く。YBTが展示の一番最初に置いてあり、『小栗判官・照手姫』の木造船模型はあらためて見ると、全体の模型の中でも一際大きいことに気づく。『恋に狂ひて』と『竜の子太郎』の模型がその隣に続いていた。昨年のパルコで行われていた展示よりもさらに内容が充実しており、ドイツ留学時代の卒業制作の一部も展示してあった。作品によっては、設計意図について詳細に書いてあるものもあり、非常に勉強になった。

寿町でのShinBowさんのライブへ行く。率直に言って、昨年よりも楽しめた。降雨のために屋内での開催となり、ShinBowさんも「外でやりたかった」と言っていたけど、おそらく屋内だからこそShinBowさんの歌のうまさにじっくり耳を傾けることができた。また、沖縄の地元ネタをたくさん入れたMCが増え、それも自然体の沖縄……というか、自然体のShinBowさんを感じられて良かった。村ごとの方言の違いがそれぞれの歌に残っており、「歌は残すためにあるんだ、みんな歌を作ろう」とおっしゃっていた。歌の意味や役割について、あらためて考える良い刺激をいただいた。

にごりえ音作り日記(1)

星乃珈琲店でエンゲル係数を高め、自らを金欠に追い込みながら計画を練る。

家に帰って極楽金魚用に仕込んだバカでかスイッチャーセットでまずは音を出そうとするが、インプットとアウトプットがわからず焦る。

数分迷った後、無事音出し開始。

今回は音作りや低域のキレをよくするために、ギター本体のボリュームを積極的に使う。特にフロントはボリュームを結構絞る。リアの場合はトーンも絞る。

リア→長屋系の音

フロント→新開系の音

弾いてる時はと思ったが、まだ結論は出さない。

過去の記憶に入るところでは、フロントを少しずつ上げて、低域で押していっても良いかも。

明日は極楽金魚のノブ位置を壊していくので、その前にアナログペダルのノブ位置を記録しておく。

今回は要所でローゲインオーバードライブ的な使い方をやってみたい。アンプシミュレーターでやるか、エフェクターでやるか……

続く?

何もしてないのに疲れている

ここ数日間、水面下で起こった激動に翻弄されていた。結果的に良い方向に向かっている気はするが、最終的な決定はもう少し先である。兎にも角にも心を落ち着けて、自分のモチベーションがちゃんと出てくるのを待つ。

YBTの公演用に新しい楽器を作る作業がありつつ、5月の語り公演の準備である。どれもこれもまだ全然進んでいないけど、現在水面下の企画とともに急ピッチで進めなければいけない。仕事がガンガン入る時期と入らない時期の差が激しいせいで、すっかり心身の調子もそれに同調するかのように激しい上昇と下降を繰り返している。もうちょい仕事のペースを均していきたいとも思うのだけど……どうしても仕事に波は出るから、普段からの備えということになるのだろうか。

寝る前に本を読むと夢を覚えていることが多い。昨日は変な夢をたくさん見た。今日も寝る前に読んでおこうと思う。

自己観察への見切りのタイミング

ここ2週間ほど左手人差し指の調子が悪いため、楽器を弾かないようにしている。なかなか治るのが遅いが、これはどうしても日々の生活の中で人差し指を使わざるを得ないからだろう。

自分の仮面即興を動画に撮った。自分の体の良くない部分がよくわかる。次の本番までにもっと強化をしなきゃいけないとはっきりわかる。やはり記録はちゃんとしておくべきだな。

やるべきことをやる際に、自分の感情やモチベーションをあてにしすぎると、逆に手が進まなくなる。よく人間は悪事に手を染める際に感情を殺すが、実は良いこと(もしくは普通のこと)をする時も感情に囚われない方が良い。「良いことをする時」というのは正確に言うと、「良いことを行いつつある時」と言った方がよいかもしれないけど、要は何かを行う前にどこかで感情に対する観察に見切りをつけないと、何事も行うことができなくなる。これは語りの稽古をやっている時などにもちょっと感じたことだ。

この見切りのタイミングをいつ設定するかを見極めるのが今の自分の課題の一つだ。立ったり歩いたりすることは、いかにも安定しているような気分になってしまうけど、実際体の中はとても流動的で、常にいろんな力が拮抗している結果として体勢が生まれている。精神においてもおそらく同じで、そういった意味での均衡をいつ破るかというのが見切りのタイミングでもある。日々勉強すべきことがばかりだなあ。

久々の語り公演の稽古

2020年に遠藤さんが亡くなって以降、横浜ボートシアターは語りの公演を久しくやっていなかった。新型コロナウイルスの流行、船劇場の修繕、2度に及ぶ追悼公演などのヘビーな出来事が次から次へとやってきて、小さい公演をやっている精神的余裕がなかった。今も本当は落ち着いているわけではないけど、大きな公演をいますぐやるという状況ではないため、ようやく昔のような語りの公演を開催する余裕ができた。

事務所で行う稽古は昔のままで懐かしさが蘇ってくるが、昔のままというわけではない。稽古に参加するメンツが違うし、今は演出が紗矢さんである。そして、僕自身も語りの稽古を受けている。同じような出来事でも、決して何から何まで同じにはならない。それは舞台の本番が毎回違うのと似ている。

語り公演の稽古ができるようになったとは言っても、それは余裕ができたというわけではなく、確定申告などの雑務をはじめ、水面下では相変わらずたくさんの仕事がふりかかっている。気の遠くなるような気分になりながらジミヘンを聴いていると、平衡感覚を失ってどこかにトリップしそうになる。

今日の稽古の最中、図らずも最期に近い頃の遠藤さんの話になった。思い出すといまだに少し辛いものがある。人の死というものはいつまで経っても慣れない。死というものがそれだけ特別なのだ。自分の死というものはそういう意味では逆に特別ではない。死という形で他者を失う経験の方がよっぽど空虚である。死という形での他者の喪失は、逆説的にもっとも他者を感じる瞬間の一つである。

自分にとって、そのように他者に対する強烈な感覚を呼び覚まされる瞬間はもう一つある。舞台の本番に立った時だ。これは昨年役者として舞台に立って実感した。本番中は舞台から客席はほとんど見えないのだが、それにも関わらず舞台上の役者は観客を強烈に感じ取って芝居を演じる。この時、役者はおそらく言語を絶するほど深い体験をしているが、果たしてそのことが自分をいくらか変えてしまったかまではわからない(よくよく思い出してみると、似たような感覚は人生の節目で何度かあった。しかし、舞台の本番が有数の出来事であることは確かだ)。

さて、最初に戻って語りの稽古のことになると、語りの稽古は本番並み、または本番以上に緊張する。聴いている人の顔がはっきり見えるし、腹の座り方が本番よりも弱くなりがちだからだ。本番はもう絶体絶命な状況をいわば押し付けられているので逆に問題ないのだが、極限状況まではいかない状態で他者と対面し、語るという稽古のあり方はいまだに慣れない。毎週土曜の語りのワークショップの時もめちゃくちゃ力が入ってしまう。今までなぜ緊張してしまうのかわからなかったが、今この文章を書いていて、本番と稽古では他者の性質が自分の中でちょっと違うらしいという手がかりを得た。稽古でも語るときは一人だが、ダメ出しも入ればやり取りもある。その中でどう切り替えて的確に語っていくか。そこは結局自分の責任として引き受けなければいけない。

この文章を書いている時もそうだけど、一人になった時にその人間がどれだけ力を出せるか。遅まきながら、今年はこのことにこだわってみたい。

映像チェック

『新版 小栗判官・照手姫』前半の映像チェック。一人では絶対に耐えられないので、紗矢さんに付き合ってもらい、無事最後まで見ることができた。一度見れたから、次は多分一人でも大丈夫。そろそろ動画用に録音した音声もチェックしなければ。

今は小さい仕事をコツコツとこなしつつ、勉強しつつ、構想を練る期間。これは一種の猶予期間と自分は感じるが、とはいえ遊ぶ時間があるかといえば全然ないので、見方を変えると忙しいとも言える。しかし、現在の自分を忙しいとは思っていない。心に余裕があるからだろう。

ここ1〜2年を振り返ってみると、仕事の充実がいき過ぎて、忙しいと感じたケースが多かった。いくらでも仕事をしようとして限界が来る時もあれば、単純にやることが多過ぎてキツくなったという時もある。さらには、役者的な訓練を通じて、自分の意識の深いところを感じなければならなくなった時、今までやっていた仕事が我慢できなくなり、実際の稼働率以上に「忙しい」ように感じてしまった時もある。

「忙しさ」の感じ方が変わってきたことを踏まえると、今回の『新版 小栗判官・照手姫』を通じて生き方が変わってしまったとは言える。ここ1年くらいはその変化に対応しきれなかった感じがするので、これから先は、もう少しバランス良く生きることを目標にしようと思う。そのためには、生活のリズムが大事だな〜などと漠然と思っている次第。

わからないなりに何をするか

今週末は地味に色々予定が入ったり、ちょっとした連絡があって慌ただしい。別に今週末に限った話でなく、楽器の練習がじっくりできる日はそう多くない。曲をじっくり作れる日も同様。演奏にせよ作曲にせよ、できることは一音一音の確信を高める作業だけ。

基本は、ある演奏をするときに最低限の力を知ること。あるいは、最低限何をすれば曲が成立するかを見極めること。同時に、目的を達成するために必要な動作を想像すること。これらをせずに練習・作曲を始めるとドツボにハマる。

今、インドとアフリカの本を同時に読んでいて、ふとこの二つの区別がきちんとついたのは何歳くらいの頃だったかを思い出そうとしてみた。少なくとも、小学校の低学年くらいまではよくわからなかったように思う。

それ以外にも、区別がつかないことはたくさんあった。今だってわからないことばかりな上に、新しい出来事や概念は日々泡のように生まれては消えていく。まともに流れに乗ろうと思っても乗れるわけがないのは明白だ。であれば、演奏や作曲と同じように、確信を持てることを少しずつ積み上げていくしかない。しかし、僕は音楽以外のことに関してはそのことをサボり気味である。いや、音楽ですらかなり怪しい……

ギリギリまで考えて迷うことが良くも悪くも自分の特徴だと思うので、せいぜいこの先も悩むことにしたいが、悩みといえば、人生何を優先するかはとても難しい問題だ。十年くらい前だったら音楽優先だろ、と秒で答えられたけど、今の自分の振る舞いを客観的に捉えると、YBTが最優先事項だと思う。なぜそういうことになっているかを、今この時期にじっくり考えて来年に備えておきたい。

『インド神話』

やらなければいけないことがあまり消化できてないにもかかわらず、あまり焦っていない。ここ数年困難が降りかかり過ぎて麻痺していると思う。結局後で自分の首が絞まることになるので、いい加減手を動かさなければ。

一方で、今は一年のうちでもっとも音楽に対してじっくり取り組むことができる期間であることも確か。音楽を最優先にして、やらなきゃいけないことは尻に火がついた時に勢いでやってしまおうという作戦もないではない。

最近『アフリカの白い呪術師』を読んで面白かったので、アフリカ神話に関する本を読もうと思ったが、あいにく図書館カードの有効期限がちょっと前に切れており、新たに発行してもらうために図書館に行くのもなんか億劫で、手元にあった『インド神話』を読み始めた。

古代インドの神様には時代に応じて地位の変化が色々あったようだ。その辺の流れは読んでいてもさっぱり頭に入らない。しかし、地位の変化にはどんな要因があったのかが気になって、読みながら色々想像はしていた。シヴァ派とヴィシュヌ派で争ったとかもありそうだな〜、とか。インドの神概念ってどんなものなんだろう思う。神のポジションが動的だった時代には、多少氏神的な色彩もあったのだろうか?

3人のアスラが苦行をしてブラフマーを満足させ、願いを叶えてもらうという説話がある。その時、彼らはブラフマーに「私たちは1000年間にわたって悪行を続けるが、その後自分たちはシヴァに殺されるでしょう」と何故か最終的な死を受け入れた上で願いを聞き届けてもらっていた。悪役のくせに妙に物分かりが良く、不思議である。これをメタ的に読めば、元々アスラたちはそんな物分かりが良いキャラ設定ではなかったが、『マハーバーラタ』特有の運命観を強調するため、後からこの物分かりの良さを付け足したのではないか、と推測できそうだ。しかし、これを頑張ってベタにそしてアクロバティックに読み込む方が、実は面白いのではないか。そんな予感を覚えつつ、早くこの本を読み切らなければと思っている。