にごりえ音作り日記(1)

星乃珈琲店でエンゲル係数を高め、自らを金欠に追い込みながら計画を練る。

家に帰って極楽金魚用に仕込んだバカでかスイッチャーセットでまずは音を出そうとするが、インプットとアウトプットがわからず焦る。

数分迷った後、無事音出し開始。

今回は音作りや低域のキレをよくするために、ギター本体のボリュームを積極的に使う。特にフロントはボリュームを結構絞る。リアの場合はトーンも絞る。

リア→長屋系の音

フロント→新開系の音

弾いてる時はと思ったが、まだ結論は出さない。

過去の記憶に入るところでは、フロントを少しずつ上げて、低域で押していっても良いかも。

明日は極楽金魚のノブ位置を壊していくので、その前にアナログペダルのノブ位置を記録しておく。

今回は要所でローゲインオーバードライブ的な使い方をやってみたい。アンプシミュレーターでやるか、エフェクターでやるか……

続く?

何もしてないのに疲れている

ここ数日間、水面下で起こった激動に翻弄されていた。結果的に良い方向に向かっている気はするが、最終的な決定はもう少し先である。兎にも角にも心を落ち着けて、自分のモチベーションがちゃんと出てくるのを待つ。

YBTの公演用に新しい楽器を作る作業がありつつ、5月の語り公演の準備である。どれもこれもまだ全然進んでいないけど、現在水面下の企画とともに急ピッチで進めなければいけない。仕事がガンガン入る時期と入らない時期の差が激しいせいで、すっかり心身の調子もそれに同調するかのように激しい上昇と下降を繰り返している。もうちょい仕事のペースを均していきたいとも思うのだけど……どうしても仕事に波は出るから、普段からの備えということになるのだろうか。

寝る前に本を読むと夢を覚えていることが多い。昨日は変な夢をたくさん見た。今日も寝る前に読んでおこうと思う。

自己観察への見切りのタイミング

ここ2週間ほど左手人差し指の調子が悪いため、楽器を弾かないようにしている。なかなか治るのが遅いが、これはどうしても日々の生活の中で人差し指を使わざるを得ないからだろう。

自分の仮面即興を動画に撮った。自分の体の良くない部分がよくわかる。次の本番までにもっと強化をしなきゃいけないとはっきりわかる。やはり記録はちゃんとしておくべきだな。

やるべきことをやる際に、自分の感情やモチベーションをあてにしすぎると、逆に手が進まなくなる。よく人間は悪事に手を染める際に感情を殺すが、実は良いこと(もしくは普通のこと)をする時も感情に囚われない方が良い。「良いことをする時」というのは正確に言うと、「良いことを行いつつある時」と言った方がよいかもしれないけど、要は何かを行う前にどこかで感情に対する観察に見切りをつけないと、何事も行うことができなくなる。これは語りの稽古をやっている時などにもちょっと感じたことだ。

この見切りのタイミングをいつ設定するかを見極めるのが今の自分の課題の一つだ。立ったり歩いたりすることは、いかにも安定しているような気分になってしまうけど、実際体の中はとても流動的で、常にいろんな力が拮抗している結果として体勢が生まれている。精神においてもおそらく同じで、そういった意味での均衡をいつ破るかというのが見切りのタイミングでもある。日々勉強すべきことがばかりだなあ。

久々の語り公演の稽古

2020年に遠藤さんが亡くなって以降、横浜ボートシアターは語りの公演を久しくやっていなかった。新型コロナウイルスの流行、船劇場の修繕、2度に及ぶ追悼公演などのヘビーな出来事が次から次へとやってきて、小さい公演をやっている精神的余裕がなかった。今も本当は落ち着いているわけではないけど、大きな公演をいますぐやるという状況ではないため、ようやく昔のような語りの公演を開催する余裕ができた。

事務所で行う稽古は昔のままで懐かしさが蘇ってくるが、昔のままというわけではない。稽古に参加するメンツが違うし、今は演出が紗矢さんである。そして、僕自身も語りの稽古を受けている。同じような出来事でも、決して何から何まで同じにはならない。それは舞台の本番が毎回違うのと似ている。

語り公演の稽古ができるようになったとは言っても、それは余裕ができたというわけではなく、確定申告などの雑務をはじめ、水面下では相変わらずたくさんの仕事がふりかかっている。気の遠くなるような気分になりながらジミヘンを聴いていると、平衡感覚を失ってどこかにトリップしそうになる。

今日の稽古の最中、図らずも最期に近い頃の遠藤さんの話になった。思い出すといまだに少し辛いものがある。人の死というものはいつまで経っても慣れない。死というものがそれだけ特別なのだ。自分の死というものはそういう意味では逆に特別ではない。死という形で他者を失う経験の方がよっぽど空虚である。死という形での他者の喪失は、逆説的にもっとも他者を感じる瞬間の一つである。

自分にとって、そのように他者に対する強烈な感覚を呼び覚まされる瞬間はもう一つある。舞台の本番に立った時だ。これは昨年役者として舞台に立って実感した。本番中は舞台から客席はほとんど見えないのだが、それにも関わらず舞台上の役者は観客を強烈に感じ取って芝居を演じる。この時、役者はおそらく言語を絶するほど深い体験をしているが、果たしてそのことが自分をいくらか変えてしまったかまではわからない(よくよく思い出してみると、似たような感覚は人生の節目で何度かあった。しかし、舞台の本番が有数の出来事であることは確かだ)。

さて、最初に戻って語りの稽古のことになると、語りの稽古は本番並み、または本番以上に緊張する。聴いている人の顔がはっきり見えるし、腹の座り方が本番よりも弱くなりがちだからだ。本番はもう絶体絶命な状況をいわば押し付けられているので逆に問題ないのだが、極限状況まではいかない状態で他者と対面し、語るという稽古のあり方はいまだに慣れない。毎週土曜の語りのワークショップの時もめちゃくちゃ力が入ってしまう。今までなぜ緊張してしまうのかわからなかったが、今この文章を書いていて、本番と稽古では他者の性質が自分の中でちょっと違うらしいという手がかりを得た。稽古でも語るときは一人だが、ダメ出しも入ればやり取りもある。その中でどう切り替えて的確に語っていくか。そこは結局自分の責任として引き受けなければいけない。

この文章を書いている時もそうだけど、一人になった時にその人間がどれだけ力を出せるか。遅まきながら、今年はこのことにこだわってみたい。

映像チェック

『新版 小栗判官・照手姫』前半の映像チェック。一人では絶対に耐えられないので、紗矢さんに付き合ってもらい、無事最後まで見ることができた。一度見れたから、次は多分一人でも大丈夫。そろそろ動画用に録音した音声もチェックしなければ。

今は小さい仕事をコツコツとこなしつつ、勉強しつつ、構想を練る期間。これは一種の猶予期間と自分は感じるが、とはいえ遊ぶ時間があるかといえば全然ないので、見方を変えると忙しいとも言える。しかし、現在の自分を忙しいとは思っていない。心に余裕があるからだろう。

ここ1〜2年を振り返ってみると、仕事の充実がいき過ぎて、忙しいと感じたケースが多かった。いくらでも仕事をしようとして限界が来る時もあれば、単純にやることが多過ぎてキツくなったという時もある。さらには、役者的な訓練を通じて、自分の意識の深いところを感じなければならなくなった時、今までやっていた仕事が我慢できなくなり、実際の稼働率以上に「忙しい」ように感じてしまった時もある。

「忙しさ」の感じ方が変わってきたことを踏まえると、今回の『新版 小栗判官・照手姫』を通じて生き方が変わってしまったとは言える。ここ1年くらいはその変化に対応しきれなかった感じがするので、これから先は、もう少しバランス良く生きることを目標にしようと思う。そのためには、生活のリズムが大事だな〜などと漠然と思っている次第。

わからないなりに何をするか

今週末は地味に色々予定が入ったり、ちょっとした連絡があって慌ただしい。別に今週末に限った話でなく、楽器の練習がじっくりできる日はそう多くない。曲をじっくり作れる日も同様。演奏にせよ作曲にせよ、できることは一音一音の確信を高める作業だけ。

基本は、ある演奏をするときに最低限の力を知ること。あるいは、最低限何をすれば曲が成立するかを見極めること。同時に、目的を達成するために必要な動作を想像すること。これらをせずに練習・作曲を始めるとドツボにハマる。

今、インドとアフリカの本を同時に読んでいて、ふとこの二つの区別がきちんとついたのは何歳くらいの頃だったかを思い出そうとしてみた。少なくとも、小学校の低学年くらいまではよくわからなかったように思う。

それ以外にも、区別がつかないことはたくさんあった。今だってわからないことばかりな上に、新しい出来事や概念は日々泡のように生まれては消えていく。まともに流れに乗ろうと思っても乗れるわけがないのは明白だ。であれば、演奏や作曲と同じように、確信を持てることを少しずつ積み上げていくしかない。しかし、僕は音楽以外のことに関してはそのことをサボり気味である。いや、音楽ですらかなり怪しい……

ギリギリまで考えて迷うことが良くも悪くも自分の特徴だと思うので、せいぜいこの先も悩むことにしたいが、悩みといえば、人生何を優先するかはとても難しい問題だ。十年くらい前だったら音楽優先だろ、と秒で答えられたけど、今の自分の振る舞いを客観的に捉えると、YBTが最優先事項だと思う。なぜそういうことになっているかを、今この時期にじっくり考えて来年に備えておきたい。

『インド神話』

やらなければいけないことがあまり消化できてないにもかかわらず、あまり焦っていない。ここ数年困難が降りかかり過ぎて麻痺していると思う。結局後で自分の首が絞まることになるので、いい加減手を動かさなければ。

一方で、今は一年のうちでもっとも音楽に対してじっくり取り組むことができる期間であることも確か。音楽を最優先にして、やらなきゃいけないことは尻に火がついた時に勢いでやってしまおうという作戦もないではない。

最近『アフリカの白い呪術師』を読んで面白かったので、アフリカ神話に関する本を読もうと思ったが、あいにく図書館カードの有効期限がちょっと前に切れており、新たに発行してもらうために図書館に行くのもなんか億劫で、手元にあった『インド神話』を読み始めた。

古代インドの神様には時代に応じて地位の変化が色々あったようだ。その辺の流れは読んでいてもさっぱり頭に入らない。しかし、地位の変化にはどんな要因があったのかが気になって、読みながら色々想像はしていた。シヴァ派とヴィシュヌ派で争ったとかもありそうだな〜、とか。インドの神概念ってどんなものなんだろう思う。神のポジションが動的だった時代には、多少氏神的な色彩もあったのだろうか?

3人のアスラが苦行をしてブラフマーを満足させ、願いを叶えてもらうという説話がある。その時、彼らはブラフマーに「私たちは1000年間にわたって悪行を続けるが、その後自分たちはシヴァに殺されるでしょう」と何故か最終的な死を受け入れた上で願いを聞き届けてもらっていた。悪役のくせに妙に物分かりが良く、不思議である。これをメタ的に読めば、元々アスラたちはそんな物分かりが良いキャラ設定ではなかったが、『マハーバーラタ』特有の運命観を強調するため、後からこの物分かりの良さを付け足したのではないか、と推測できそうだ。しかし、これを頑張ってベタにそしてアクロバティックに読み込む方が、実は面白いのではないか。そんな予感を覚えつつ、早くこの本を読み切らなければと思っている。

『新版 小栗判官・照手姫』が終わって

現在、東京公演のチェック用映像などが送られてきている状況。先ほど恐る恐るチラ見してみたが、自分が舞台に立っている姿を見るのは拷問でしかない。とはいえ、立場上見ないわけにもいかない。次回への反省とするために、心の準備をしっかりしてからちゃんと見ることにしよう。

『小栗判官・照手姫』の恐ろしさ

この作品はある種の人を非常に深く捕らえてしまうのだとはっきりわかった。以前の演出(遠藤演出)の時も、察するに本当に色々あったのだろう。これから先、自分が飲み込まれないようにしないといけない。それには、視点を広げ、いろんなことに興味を持ち、向上心を忘れず、自由であり続けようとすることが大事だと思っている。

読売交響楽団のリゲティを聴きに行く

https://yomikyo.or.jp/concert/2022/12/633-1.php#concert

割と直前まで迷ったが気合いでサントリーホールへ。入り口でプログラムらしきものを配ってたけど、もらってくるのを忘れた!

リゲティ生誕100周年ということもあって組まれたプログラムらしい。リゲティのピアノ協奏曲は、一発ネタを取り留めなく繰り出すような感じではなく、音響的素材をしっかりと発展させていってるように感じられ、とても良かった。

あんな難しそうな現代曲に大人数のオーケストラが挑んでいるという姿だけでも見もの。会場は満員ではなかったものの、お客さんの拍手は熱狂的で、カーテンコール何度やったんだってくらいずっと拍手が止まなかった。

SNS疲れ

疲れも何も、ほとんどSNSで発信してないけど、水面下では葛藤があった。今回『新版 小栗判官・照手姫』にかこつけて自分のアカウントから色々発言や宣伝のしようもあったし、言おうかどうか迷ったのではあるが、結局ほとんど何も言わずに東京公演から2週間ほど経った。何もしないで踏みとどまっていた理由は自分でも謎な部分はあったけど、さっき思い至った結論は、単純にインスタントなコミュニケーションに耐えられないからだと思った。

その基準で言えばXよりはFacebookの方がマシといえばマシ。しかし、「いいね」その他のリアクションで自分の態度が決まってしまう(ように見なされる)ことがキツくて自分からはほとんど何もできないでいる。

もっとも、こういうことで気疲れするよりは、創作を頑張ることが自分にとっては遥かに大事。今日の読響もそうだけど、自分の肥やしになることに投資をしつつ、数少ない暇な時間で創作を続けることとしよう。

10月3日『創作影絵人形劇「極楽金魚」』振り返り

ずいぶん久しぶりの更新です。

つい先日(10月3日)久しぶりの公演『創作影絵人形劇「極楽金魚」』があり、その余韻も覚めやらぬ中、並行して動いていた次の横浜ボートシアターの企画『白い影絵』が本格化します。次の企画についても色々書きたいんですが、今回は『創作影絵人形劇「極楽金魚」』のことについて、スタッフ的な観点から振り返ります。

本公演は初めてのライブ配信を行ったのですが、その際のテクニカルな部分の御膳立てを、カメラの映り方の設定(露出とかホワイトバランスとか)以外は全て僕が行いました。これを無事に乗り切るのが無茶苦茶プレッシャーのかかる仕事でした。

当初(配信クオリティ的な意味で)無事にやり通せる自信がなく、無料配信が可能か劇団と相談しました。しかし、劇団からは無料でやるのはNGと返事。今思えばその決定があったからこそ今回の成果が得られたわけですが、仕込みと動作チェックが終わるまで、毎日頭が沸騰しそうなくらい悩みながら色々考えてました。そして諸々の事情によりなかなか必要な機材が買えず、本番が近づけば近づくほど音楽よりも配信に関わる作業で忙殺されるという始末……(幸い配信の反響は悪くなかったので、その甲斐があったかなと思います)

一番不安だったのはWi-Fiの強度。上り無制限の強そうなルーターをレンタルするのはいいけど、果たして公演中無事に皆様にお届けできるのか? 結果はご覧になった通り。前半微妙にコマ落ちが発生していたので、配信後、会場での撮って出しを視聴可能にするサービスは妥当かなと個人的には思いました。ライブ配信のクオリティに関しては、小さい規模だとこれが限界かもしれません。もっと予算があればさらに高価な機材を使って安定した配信ができるような気がします。

今回、配信への音声入力・録音に8ch入力のMTRを使用しました。しかし、その仕様をじっくり頭に入れる時間がないまま会場入りしてしまい、なんとなくな感じでスイッチャーに音を突っ込むという気持ち悪い使い方になってしまいました。今時なんでMTRにしたかというと、PCでの録音に対する漠然とした不安があったためです。会場の船は電源が弱く、時たま電圧が100Vよりもかなり下に落ちます。そうなったときAI/Fが異常動作しないかかなり心配でした(過去に一度、船ではない会場で本番数時間前にAI/Fが低電圧でぶっ壊れ、ダッシュで代替品を買いに行った苦い思い出があります。あれ以来、持っていけるスペアは可能な限り現場に持っていくようになりました)。電源の弱いところではアダプターからではなく、PCからバスパワーで電源が取れるインターフェースの方が安心ですね。と言いつつ、今自分はアダプター経由のやつしか持っていない。次の本番までには買い換えたいところです。

なお、ライブ配信ではなく音楽の方での細かいトラブルもありました。今回本番中に比較的電流を使うエフェクター(Eventide Time Factor)が少なくとも2度ほど電源が落ちました。幸いにもそのエフェクターが目立たない箇所での事件で助かりましたが、派手に使うシーンもあったのでその時に落ちなくて良かったと心から安堵しています(もうちょい電流を使わずに済むエフェクターに変えた方が良さそうですね。Time FactorからDD-500あたりに変えると思います)。

さらに余談ですが、今回足元のエフェクターの大半に電源を供給したのは、VITAL AUDIOのバッテリー付きパワーサプライでした。これが大当たりで、バッテリー付きでなかったらおそらく何回も音がブツ切れてたんじゃないかと思います。本番中も電源タップから電源は取ってたものの、実は全然電圧が足りてなかったらしく、家に帰ってコンセントに挿したら即座にバッテリーの充電が始まり、残りを見たら2〜30%くらいになってました。これまた本番中バッテリー切れにならなくて良かった……

ところで、今回は本番前の二日間、『創作影絵人形劇「極楽金魚」』の動画作品としての撮影も敢行。「遠藤さんの一番年下の友達」田中千里くんと、「田中くんの友達」我妻天湖くんがすごく頑張って撮影してくれました。これから僕も参加して編集するので楽しみです。

動画配信作業のメイキング(?)

ここ数週間、本当に忙しくなってしまってニュースをチェックすることもままならなくなってしまった。おかげでコロナウイルス実態解明の進展についてあまりキャッチアップできておらず、昨日ようやく、ドイツでは日本のとった対策が「たまたまうまくいった」という評価になってきていることを知った。

そうこうしているうちに、コロナウイルス騒ぎが始まる前に決まった仕事はほぼ全部消滅した。自分としても、これで新しい世界に踏み出してしまったのだなという感が強固になった。今横浜ボートシアターでは新たな活動の試みを始めており、自分も協力できる部分はしていこうと持っている。

さて、忙しかった理由の一部は横浜ボートシアター『耳の王子』の動画公開に関わる作業です。本日ようやく無事に公開にこぎつけたが、そこに至るまでの過程が本当に長かった。いつもの手順に加え、劇団と共同主催の国際交流基金への許可申請(奥本くんが担当)、インドネシア語・日本語字幕の作成(吉岡さん、奥本くん、松本の分業)という二つの激重タスクが加わり、当初よりも予定が伸びてしまった。

特に字幕はYouTubeの編集機能が使いづらかったり、なぜか内容が保存されなかったりで、最初のほうは本当に精神を削られた。仕方がないので、途中からはオフラインで字幕を合わせ、字幕ファイルを出力してYouTube上で合わせるというやり方に切り替えた。

このせいで、本当は単純な分業で済むはずだったのが、インドネシア語の字幕に関しては、僕がまず字幕をオフラインで合わせ、それをYouTube上でご両名に微調整してもらうという流れになってしまった。作業量的な面では1.5度手間(二度手間まではいかない)くらいにはなってしまって、残念な感じはするけど、まあ、トラブルへの対応としてはそこそこうまくいった。何せ無事に公開できたんだから。

しかし、今度は字幕ファイルに謎のズレが生じる。動画編集ソフトで調整しようとしても、一度作成したキャプションの頭を伸ばすことがなぜかできない。ここでやりたいことは字幕の表示時間を一括して数秒単位で動かしたいというだけなのだが、なぜかPremiere Proではできなかったのだ! なんでなんすかー、Adobeの中の人、教えて〜!

というわけで、最初はGoogle Spreadsheetの時間計算を頼ろうと色々頑張ったが、結局AegiSubというソフトを使うのが一番確実だった。

ちなみに字幕を台本からPCに入力する段階では、Google Spreadsheetを全面的に活用しました。特にインドネシア語台本を打ち込む時は、GOOGLETRANSLATE関数が超便利で、これがなかったら作業時間が最低1.5倍くらいになってただろうなと思います。

Google翻訳、検索結果や翻訳用の単独ページでの精度は、ある時期から本当にこなれてきてすごいと思うんですが、スプレッドシートでGOOGLETRANSLATE関数が返してくる翻訳はいまだに前時代的なものです(少なくともインドネシア語→日本語に関して)。しかし、それがかえって面白く、作業中の一服の清涼剤として機能してくれたことには感謝したい!

ちなみに動画の編集に加え、宣伝に関する作業も同時にやらなければいけない状態でした。前回の『夕やけぐるみの歌』と今回の『耳の王子』宣伝の内容・構成はだいたい僕が考えて、みなさんに修正してもらって即送信!という感じになってしまいました。理想を言えばもっと色々したいんですけどね、なかなか難しい。

少人数の集団は計画をしっかりしないと簡単に詰みます。今回はギリギリ詰まないですんだけど、その分日常への被害はどうしても出てしまう。本日はすでに作業のピークが過ぎているのに、電話着信の幻聴が数時間おきに聞こえて、うまく眠れなくなってしまいました。

しかし、今後いつかくるであろう公演の予行演習としてはちょうど良かった。中規模クラスの公演になると、これより大変なのは間違い無いので、しっかり準備しないと!