夏、良心が試される季節

横浜ボートシアターはこの夏、船の大掃除をしており、衣装の虫干し、備品の整理などを行なっている。船劇場をドックに入れて検査するということもあり、以前行った大掃除よりもさらに抜本的な整理が予定されている。その過程で、僕たちは蚊やダニなどの「害虫」と接触する。

蚊、ダニ、時々ゴキブリという塩梅で船にはおそらく少なくない数の虫が生息しているが、一般的に人はそういった害虫を見つけると平気で殺す。僕自身は目に見えるほど大きい蚊やゴキブリを殺すのには非常に抵抗があるが、ほとんど見えないほど小さいダニをバルサンで殺すことには何とも思わない。実に身勝手な線引きである。これは一部のベジタリアンが、肉を食べるのには良心が痛む一方で、葉っぱを食べることを何とも思わないのと一緒だ。

生き物の種類によって殺すときに良心が痛んだり痛まなかったりするということは、端的に言えば欺瞞である。これを、良心の限界が持つ問題だと思った時期もあるが、最近は単に生理的な好悪を良心という言葉で言い換えていることからくる矛盾に過ぎないのかもしれない、と思っている。

というのも、もし良心が実在するとすれば、その持ち主は分け隔てない誠実で公平な判断を下すであろうと考えられるからだ。自己都合で生殺与奪の軸がブレてしまうような判断の源泉を、僕は良心と見做すことができない。

生理的な好悪からブレのある判断をしているのにもかかわらず、それを良心の発露と誤解し、盤石の基礎を持つ正義であるという風に誤って認識すると、問題がこじれる。一部のベジタリアンが肉を食べる人たちに悪罵の混じった正義の鉄槌を下している光景が、TwitterやWEBでたまに見られる。蚊やゴキブリを叩き殺す人を見ると、僕はそれと同じ愚を犯しそうになる。

これは仮説だが、人間というものは、生理的な判断と良心からくる判断をしばしば区別し損なう。だからこそ、良心的な判断に少しでも近づきたければ、生理的直感を留保して、それなりの反省的・理性的思考が必要だと思われる。夏は暑いこともあり、思考するには不得手な季節かもしれない。戦時中も飢えが一般人から思考能力を奪ったという。自己都合でブレることのない、誠実で粘り強い思考を保つには何をするべきか、厳しい酷暑にこそ気をつけて考えておきたい。