バカと利口のあわい

YouTubeにあった24年前(!)のHi-STANDARDの映像を観ながらふと閃いた。ダイブやモッシュってダンスの一種といってもいいのではないか、と。曲間少なく次々と曲を演奏し、客が好き勝手に暴れまわる姿は、DJとフロアの関係に重なる 。

今まで一度もそんなこと思わなかったし、客としてパンクっぽいライブを観に行った時もダイブやモッシュがダンスだとは一瞬たりとも感じなかった。その上、むしろファンクをはじめとしたいわゆるダンスミュージックのノリには全然馴染めなかったりした。

もちろんパンクのオーディエンスの方が圧倒的に凶暴で怪我の危険性が高いし、そういう部分にパンクの矜持が含まれていた。だからこそ身体的危険の少ない、どちらかというと快楽的なダンスミュージックに漂う「軽さ」が嫌だったのだ。そこにはメインストリームなポップスのダンスミュージック感に対するアンチな衝動もあったと思う。

しかし、音楽にそういうプライドを託す時代は終わったんじゃないかと思う。少なくとも僕個人としては終わった。それがいいことか悪いことかはわからないが、良く言えば利口、悪く言えばバカになれないということかもしれない。

人間誰しもどこかでバカになりたいと願っているものだが、バカになった瞬間に客観性が消え失せて暴走する危険を常に孕んでいる。そういう「バカ」なパフォーマーは今でもたくさんいると思うが、それがどこか単に滑稽に見えてしまうのが自分の目の悲しさかもしれない。

まあ、そうやって冷めた視線があるからといって、始終クールにお仕事として音楽をやるのが良いとは思っていない。自分だってある意味「バカ」になりたいと思ってやっている。しかし、その自分の「バカ」さを客観的に外から見れるようにならないと、何度も何度も寒いことをやってしまうのである。公演の後で自分の失態を思い出し、死にたくなって頭を抱えるのも悪い経験ではないけどね。

『名盤レコーディングから読み解くロックのウラ教科書』

Kindle Unlimitedのおすすめにあったので読んでみた。とても面白かった!70年代のロックじゃなきゃ〜、とか、レコードが〜、とか、デジタルは〜、など音楽通が言いそうなことを片っ端から解説してくれています。オカルト的な話は一切なく、全てをロジックで説明してくれているので、音楽を作っている人ならば少なからず参考になる部分があるのではないかと思います。

ある時期のジミヘンのフェイザーは人力でやっていたとか、リンゴ・スターはコンプで潰れまくっている音を計算しながら叩いていたとか、エンジニアのインタビューやレコーディング裏話をよくチェックしている人だったら知っていることなのかもしれないが、自分は全然知らない話ばっかりで、いちいち膝を打ったり、納得したり。大変勉強になりました。

なお、録音された音楽の好き嫌いが、実はかなりの部分エンジニアの音作りに影響されているのではないか、というのが本書指折りの積極的な主張(だと思う)。確かに録音の質感というのは非常に大事で、最近でもやたらとMS処理されてワイド感の強い音源が多かったりするので、機材(あるいはプラグイン)によって時代の音が生み出されているのは確かでしょう。

著者の業界予想として、再生環境的に音圧競争の意味がなくなりつつある現在、隙間のあるアレンジで、一つ一つの楽器の存在感が強い音楽が好まれるようになるのでは、と書いてありました。それは今既にアメリカのシーンではそうなってる感じがあります。Vulfpeckとかネオ・ソウル界隈をイメージするとわかりやすいですね。ごく簡素なPAで一流ミュージシャンがライブを行うTiny Desk Concertもそういう流れにがっちりハマった感があります。

隙間の多いアレンジが主流になると、当然ながら演奏者個人の実力が問われることになります。2000年代〜10年代にかけては色々すったもんだがあった音楽業界ですが、個人の力量が素直に問われる時代になりつつあるのだとすれば、本当に音楽が好きな人にとっては良い時代なのかもしれません。一生かかってもかないっこないような若い実力者がもう続々とSNSやYoutubeで頭角を現している中、僕も頑張りたいと思います。

詩ごころがわかりたい(わからないものと自分を繋げる第一歩)

横浜ボートシアターの方々と関わっていると、よく「詩的表現」という言葉が出てくる。意味合いとしては、なんらかの飛躍した表現であったり、象徴性のある表現だったりする。そういう文脈での「詩」は、劇団との付き合いももう10年になるので、ある程度わかっていると思う。

しかし、自分はいまだに詩が読めている自信がない。何度か散発的にチャレンジしたことがあるが、その度中途半端に終わっている。
最近、新たな企画の必要性から詩を読む機会が増えた。何らかの強制力がかかると、理解への圧力が段違いなので、これ幸に企画と直接関係ない詩集も読んでみた。

最初はやっぱり何が面白いのか理解できないのだが、同じ作者の詩をいくつも読んでいると、その人のカラーというものがだんだんわかってくる。わかってくると、その色に応じた読み方がなんとなくできるようになってくる。すると、素通りしてしまう詩と、なんとなく目に止まる詩にわかれてくる。自分なりの詩に対する感覚が少しはできた、ということなのかもしれない。

詩についてもう一つ面白そうだと思う切り口は、日本における詩の歴史である。明治初期の詩のアンソロジーを読んだら、いまは当たり前の口語詩が、かつてはまったく当たり前でなく、ある種の発明であったことがよく体感できた。知識では口語詩、新体詩というものが発明されたことは知っていたが、その前にどんな詩があったのか(和歌、俳句等でなく)、ということになると意外とイメージが湧かないものだとそのとき初めて気づいた。ちなみに、文語詩でかなり有名な部類に入る「若菜集」は、調べたら1897年。ということは明治後半と言っていい時期だ(ついでに言うと樋口一葉はすでに亡くなっている)。この頃すでに一葉は古風な作風だと認知されていたらしいので、「若菜集」の文語詩もそれなりに古風な趣だったのではないか(内容的にはロマン主義で新しかったのでしょうが)。

閑話休題。先述したアンソロジーに取り上げられた詩人たちは、ヨーロッパ的な要素を取り入れようとギリシャ神話などを題材にしているのだが、言葉は完全に文語で、漢語も多く、しかも七五調。今読めばわざと難しく書いているようにしか思えないが、新しい時代にふさわしい詩を作ろうと必死だったことは想像に難くない。激しい格闘の中で生まれた果実を存分に味わえる現代は幸せである。

さて、自分としては、こんなことを考えているうちに、詩を楽しめる予感がしてきた。わからないことにぶち当たった時、それが自分にとってもし大切だったら、それをいかに自分と繋げるかということが大事である。

今回は、「仕事上の強制力が働いたこと」、「一人の詩人に親しんだこと」、「口語詩が歴史的な挑戦の堆積の成果と実感できたこと」、という三つのくさびを詩に打ち込むことができたので、詩を読むためのとっかかりができたように思う。

(2020年1月11日 大幅に追記)

新年あけましておめでとうございます

旧年中は様々な方にお世話になりました。相変わらず横浜ボートシアターではたくさん公演をしたし、そのご縁で福井にも行ったし、説経節政大夫師の「愛護の若」の演奏にも加えていただきました。関係者の皆様、ご来場いただいた皆様に心よりお礼申し上げます。

昨年末より仕事がちょっと空き気味だったので、超久しぶりに真面目に(?)音楽に打ち込んでいます。毎日魂が抜けるくらい楽器を練習するのも良いものです。

実は2018年の横浜ボートシアター公演「さらばアメリカ!」が終わったあとくらいから、音楽という表現形態に対して非常に疑問を覚えるようになり、2019年中は結構しんどい思いをしながら公演に参加していた時期もあります。昨年夏頃が新作の影絵に関わっていたこともあり、一番しんどかったかなあ。

しかし、先ほども書いた通り久々に音楽漬けになった年末を経由して、音楽に対する愛がかなり充電でき、とりあえず音楽さえあれば生きていける、くらいには愛が回復しました。今、ひょんなことからちょうど良さそうな生活のサイクルが定着しつつあるので、あともうしばらくはこの調子で頑張りたいところです。

音楽に対する熱が復活した理由は、練習量が増えただけでなく、NPR Tiny Desk ConcertというYouTubeで見られる短いライブ動画のシリーズを多く見たことも関係しています。Tedeschi Trucks Band、Suzanne Vega、Jorge Drexler、Lianne La Havas等々、簡素なPAで素晴らしい演奏を聴けます。こんな貴重な映像がたくさん見られるなんて、ラッキーな時代に生まれたものです。

今年は現在の余勢をかって、音楽に対する熱を維持したまま突っ走れたらいいなと思います。まだ公言すべき段階でない目標もいくつかありますが、それは追い追い。