運命

供養塔

数多い馬塚の中に、ま新しい馬頭観音の石塔婆の立ってゐるのは、哀れである。又殆、峠毎に、旅死にの墓がある。中には、業病の姿を家から隠して、死ぬるまでの旅に出た人のなどもある。

釈迢空『海やまのあひだ』

業病という言葉は、今ではほぼ使われなくなった死語と言える。これは、前世の因果が今生で病として現れるという意味を持つためである。前世や輪廻転生といった概念を受け入れない限り、この言葉を使用することは難しい。多くの現代人が前世に由来する因果を真剣に信じていないため、業病という概念もほぼ過去のものとなっている。

業病は運命という概念に大変近い言葉である。もしくは、運命の一側面を示しているとも言えるだろう。現代人の中には運命という言葉に対して時として実感を抱き、その存在を信じる者もいる。しかし、その信仰は通常、肯定的な運命を指し示しており、業病のような否定的な意味合いを持つ運命はあまり含まれていない。

運命をある種の必然として受け入れることはあるかもしれないが、運命を必然として受け入れることと運命そのものを受け入れることとの間には、理不尽な出来事に対する超越的存在の介在の有無による違いが存在する。つまり、必然として受け入れるのは、詰まるところ理屈の上避けられなかったという知的な受け入れであり、信仰とは異なる次元のものである。

宗教的な世界観が後退し、科学的な世界観が広まるにつれて、多くの人々が死後の世界を前提とした生き方から離れていった。これは、死を含むこの世の理不尽に対処するバッファを自ら放棄する結果となった。現代社会が理不尽を受け入れる効果的な手段を見出しているわけではなく、また、業病という概念が許容できる観点に戻ることも難しい。自己の存在や死など、科学的に解決が困難な運命的な問題に対して、私たちはどのような見解を持つべきか。

死に関する問題は、自己の死と他者の死をどちらを考えるかによって大きく異なる。自己の死は本能的に避けたいものであるが、理性的に考えれば、二度と目覚めないことと同義であり、よくよく考えればそれほど恐ろしいものではない。一方、他者の死は、二度と会えない別れを意味する。通常の別れにおいて、共に過ごした時間を振り返ると寂しさが訪れるが、それは実際にはその時間を通じて自己と他者が重なり合い、他者の一部が自己の一部となっていたからである。そして、別れによってその他者が自己から離れていく際、他者の一部が自己から消える寂しさの中に痛切さを感じるのである。その極大値が死による別れであり、特に同居する人の喪失は、心の一部に穴が空いたような感覚になる。これを考えると、他者を蘇らせたいという欲望は、自己を復活させたいという欲望の裏返しであると言えるだろう。

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