Suno AI雑感

歌詞とジャンルを入力すると、自動で歌付きのトラックを生成するSuno AIというサービス、無料でお試しできるのでちょっと使ってみた。

Boosa nova with classical instrumentsみたいに、複雑にジャンルを指定したらイマイチだったが、1ジャンルのみでやってみたらそれっぽい感じになった。素直で熱心に勉強するが、勘の悪いが作った感じとも言える。

今のところ、このAIでできるメロディとアレンジは、体裁こそ整っているけど個性がなかったり、文脈的に微妙な音を鳴らしてくることがある。そういう意味で、作曲家として仕事をしている人の本当の意味での脅威ではまだないと思う。

今後どうなるかを想像してみたけど、たとえばこれが極まってハイレゾ音質でも遜色ないくらいの音源ができたとする。それは当然ビジネスプラン的なやつで月額3000円とかで使えるサービスになると思う。一発当ててやるみたいな人がこのビジネスプランに大量に押し寄せるだろう。あるいは、AI自動生成に特化したレコード会社とか、音源制作会社が出てくる可能性もあるだろう。

あるいは歌詞についても、今後人間に近いようなものを生み出すサービスが登場してくる可能性は高い(今もSunoには歌詞生成機能があるけど、もっとクオリティ高いものということで)。AIが作った歌詞をAIで作曲させ、良・不良の選別をしてマーケットに出す。

ここまできたら、人間の創造性は社会的に大いに疑問に付されることになるだろう。しかし、では創造って一体何よ、とも考えてしまう。AIが出したものに人間が手を加えるのだとしても、それは人間にとっての創造だろうか。外から見たら両者は区別ができないかもしれないが、作る人間の内面としては全く違う経験になる。

さらに、AIが動画やPV、公式SNSなども自動で運用するようになり、マーケット上のものが全てAI出力になったとしたら?その時、目に見えるものが全てAIであることを知りながら、人間はマーケットに出るものに魅力を感じるのだろうか。または、AIの持ち主はAI出力と悟られることを恐れて、AIであることを隠すようになるだろうか(AI出力なのに人間が作ったと偽ったら罪に問われる時代が来る予感もある。楽観的だけど)。

生身の人間の最後の居場所はライブになるのだろうか? しかし、物理的存在としても、人間と区別のつかないアンドロイドが、AIプロデュースによるライブを行ったら? AIの完璧な立ち回りの陰で、人間のパフォーマーですら、ひっそりと役目を終えるのだろうか?

だが、AIを主体的に動かすのが人間であったとすれば、使う側の人間は音楽の技術や知識には詳しくないとダメなんじゃないかとも思う。また、身体的に自分が音楽とどのように向き合ってきたかということも問われるだろう。作るプロセスは変わるかもしれないけど、本質的なところは結局変わらないんじゃないかっていう気もするなあ。

映像チェック

『新版 小栗判官・照手姫』前半の映像チェック。一人では絶対に耐えられないので、紗矢さんに付き合ってもらい、無事最後まで見ることができた。一度見れたから、次は多分一人でも大丈夫。そろそろ動画用に録音した音声もチェックしなければ。

今は小さい仕事をコツコツとこなしつつ、勉強しつつ、構想を練る期間。これは一種の猶予期間と自分は感じるが、とはいえ遊ぶ時間があるかといえば全然ないので、見方を変えると忙しいとも言える。しかし、現在の自分を忙しいとは思っていない。心に余裕があるからだろう。

ここ1〜2年を振り返ってみると、仕事の充実がいき過ぎて、忙しいと感じたケースが多かった。いくらでも仕事をしようとして限界が来る時もあれば、単純にやることが多過ぎてキツくなったという時もある。さらには、役者的な訓練を通じて、自分の意識の深いところを感じなければならなくなった時、今までやっていた仕事が我慢できなくなり、実際の稼働率以上に「忙しい」ように感じてしまった時もある。

「忙しさ」の感じ方が変わってきたことを踏まえると、今回の『新版 小栗判官・照手姫』を通じて生き方が変わってしまったとは言える。ここ1年くらいはその変化に対応しきれなかった感じがするので、これから先は、もう少しバランス良く生きることを目標にしようと思う。そのためには、生活のリズムが大事だな〜などと漠然と思っている次第。

わからないなりに何をするか

今週末は地味に色々予定が入ったり、ちょっとした連絡があって慌ただしい。別に今週末に限った話でなく、楽器の練習がじっくりできる日はそう多くない。曲をじっくり作れる日も同様。演奏にせよ作曲にせよ、できることは一音一音の確信を高める作業だけ。

基本は、ある演奏をするときに最低限の力を知ること。あるいは、最低限何をすれば曲が成立するかを見極めること。同時に、目的を達成するために必要な動作を想像すること。これらをせずに練習・作曲を始めるとドツボにハマる。

今、インドとアフリカの本を同時に読んでいて、ふとこの二つの区別がきちんとついたのは何歳くらいの頃だったかを思い出そうとしてみた。少なくとも、小学校の低学年くらいまではよくわからなかったように思う。

それ以外にも、区別がつかないことはたくさんあった。今だってわからないことばかりな上に、新しい出来事や概念は日々泡のように生まれては消えていく。まともに流れに乗ろうと思っても乗れるわけがないのは明白だ。であれば、演奏や作曲と同じように、確信を持てることを少しずつ積み上げていくしかない。しかし、僕は音楽以外のことに関してはそのことをサボり気味である。いや、音楽ですらかなり怪しい……

ギリギリまで考えて迷うことが良くも悪くも自分の特徴だと思うので、せいぜいこの先も悩むことにしたいが、悩みといえば、人生何を優先するかはとても難しい問題だ。十年くらい前だったら音楽優先だろ、と秒で答えられたけど、今の自分の振る舞いを客観的に捉えると、YBTが最優先事項だと思う。なぜそういうことになっているかを、今この時期にじっくり考えて来年に備えておきたい。

『インド神話』

やらなければいけないことがあまり消化できてないにもかかわらず、あまり焦っていない。ここ数年困難が降りかかり過ぎて麻痺していると思う。結局後で自分の首が絞まることになるので、いい加減手を動かさなければ。

一方で、今は一年のうちでもっとも音楽に対してじっくり取り組むことができる期間であることも確か。音楽を最優先にして、やらなきゃいけないことは尻に火がついた時に勢いでやってしまおうという作戦もないではない。

最近『アフリカの白い呪術師』を読んで面白かったので、アフリカ神話に関する本を読もうと思ったが、あいにく図書館カードの有効期限がちょっと前に切れており、新たに発行してもらうために図書館に行くのもなんか億劫で、手元にあった『インド神話』を読み始めた。

古代インドの神様には時代に応じて地位の変化が色々あったようだ。その辺の流れは読んでいてもさっぱり頭に入らない。しかし、地位の変化にはどんな要因があったのかが気になって、読みながら色々想像はしていた。シヴァ派とヴィシュヌ派で争ったとかもありそうだな〜、とか。インドの神概念ってどんなものなんだろう思う。神のポジションが動的だった時代には、多少氏神的な色彩もあったのだろうか?

3人のアスラが苦行をしてブラフマーを満足させ、願いを叶えてもらうという説話がある。その時、彼らはブラフマーに「私たちは1000年間にわたって悪行を続けるが、その後自分たちはシヴァに殺されるでしょう」と何故か最終的な死を受け入れた上で願いを聞き届けてもらっていた。悪役のくせに妙に物分かりが良く、不思議である。これをメタ的に読めば、元々アスラたちはそんな物分かりが良いキャラ設定ではなかったが、『マハーバーラタ』特有の運命観を強調するため、後からこの物分かりの良さを付け足したのではないか、と推測できそうだ。しかし、これを頑張ってベタにそしてアクロバティックに読み込む方が、実は面白いのではないか。そんな予感を覚えつつ、早くこの本を読み切らなければと思っている。

『新版 小栗判官・照手姫』が終わって

現在、東京公演のチェック用映像などが送られてきている状況。先ほど恐る恐るチラ見してみたが、自分が舞台に立っている姿を見るのは拷問でしかない。とはいえ、立場上見ないわけにもいかない。次回への反省とするために、心の準備をしっかりしてからちゃんと見ることにしよう。

『小栗判官・照手姫』の恐ろしさ

この作品はある種の人を非常に深く捕らえてしまうのだとはっきりわかった。以前の演出(遠藤演出)の時も、察するに本当に色々あったのだろう。これから先、自分が飲み込まれないようにしないといけない。それには、視点を広げ、いろんなことに興味を持ち、向上心を忘れず、自由であり続けようとすることが大事だと思っている。

読売交響楽団のリゲティを聴きに行く

https://yomikyo.or.jp/concert/2022/12/633-1.php#concert

割と直前まで迷ったが気合いでサントリーホールへ。入り口でプログラムらしきものを配ってたけど、もらってくるのを忘れた!

リゲティ生誕100周年ということもあって組まれたプログラムらしい。リゲティのピアノ協奏曲は、一発ネタを取り留めなく繰り出すような感じではなく、音響的素材をしっかりと発展させていってるように感じられ、とても良かった。

あんな難しそうな現代曲に大人数のオーケストラが挑んでいるという姿だけでも見もの。会場は満員ではなかったものの、お客さんの拍手は熱狂的で、カーテンコール何度やったんだってくらいずっと拍手が止まなかった。

SNS疲れ

疲れも何も、ほとんどSNSで発信してないけど、水面下では葛藤があった。今回『新版 小栗判官・照手姫』にかこつけて自分のアカウントから色々発言や宣伝のしようもあったし、言おうかどうか迷ったのではあるが、結局ほとんど何も言わずに東京公演から2週間ほど経った。何もしないで踏みとどまっていた理由は自分でも謎な部分はあったけど、さっき思い至った結論は、単純にインスタントなコミュニケーションに耐えられないからだと思った。

その基準で言えばXよりはFacebookの方がマシといえばマシ。しかし、「いいね」その他のリアクションで自分の態度が決まってしまう(ように見なされる)ことがキツくて自分からはほとんど何もできないでいる。

もっとも、こういうことで気疲れするよりは、創作を頑張ることが自分にとっては遥かに大事。今日の読響もそうだけど、自分の肥やしになることに投資をしつつ、数少ない暇な時間で創作を続けることとしよう。