にごりえ音作り日記(1)

星乃珈琲店でエンゲル係数を高め、自らを金欠に追い込みながら計画を練る。

家に帰って極楽金魚用に仕込んだバカでかスイッチャーセットでまずは音を出そうとするが、インプットとアウトプットがわからず焦る。

数分迷った後、無事音出し開始。

今回は音作りや低域のキレをよくするために、ギター本体のボリュームを積極的に使う。特にフロントはボリュームを結構絞る。リアの場合はトーンも絞る。

リア→長屋系の音

フロント→新開系の音

弾いてる時はと思ったが、まだ結論は出さない。

過去の記憶に入るところでは、フロントを少しずつ上げて、低域で押していっても良いかも。

明日は極楽金魚のノブ位置を壊していくので、その前にアナログペダルのノブ位置を記録しておく。

今回は要所でローゲインオーバードライブ的な使い方をやってみたい。アンプシミュレーターでやるか、エフェクターでやるか……

続く?

何もしてないのに疲れている

ここ数日間、水面下で起こった激動に翻弄されていた。結果的に良い方向に向かっている気はするが、最終的な決定はもう少し先である。兎にも角にも心を落ち着けて、自分のモチベーションがちゃんと出てくるのを待つ。

YBTの公演用に新しい楽器を作る作業がありつつ、5月の語り公演の準備である。どれもこれもまだ全然進んでいないけど、現在水面下の企画とともに急ピッチで進めなければいけない。仕事がガンガン入る時期と入らない時期の差が激しいせいで、すっかり心身の調子もそれに同調するかのように激しい上昇と下降を繰り返している。もうちょい仕事のペースを均していきたいとも思うのだけど……どうしても仕事に波は出るから、普段からの備えということになるのだろうか。

寝る前に本を読むと夢を覚えていることが多い。昨日は変な夢をたくさん見た。今日も寝る前に読んでおこうと思う。

運命

供養塔

数多い馬塚の中に、ま新しい馬頭観音の石塔婆の立ってゐるのは、哀れである。又殆、峠毎に、旅死にの墓がある。中には、業病の姿を家から隠して、死ぬるまでの旅に出た人のなどもある。

釈迢空『海やまのあひだ』

業病という言葉は、今ではほぼ使われなくなった死語と言える。これは、前世の因果が今生で病として現れるという意味を持つためである。前世や輪廻転生といった概念を受け入れない限り、この言葉を使用することは難しい。多くの現代人が前世に由来する因果を真剣に信じていないため、業病という概念もほぼ過去のものとなっている。

業病は運命という概念に大変近い言葉である。もしくは、運命の一側面を示しているとも言えるだろう。現代人の中には運命という言葉に対して時として実感を抱き、その存在を信じる者もいる。しかし、その信仰は通常、肯定的な運命を指し示しており、業病のような否定的な意味合いを持つ運命はあまり含まれていない。

運命をある種の必然として受け入れることはあるかもしれないが、運命を必然として受け入れることと運命そのものを受け入れることとの間には、理不尽な出来事に対する超越的存在の介在の有無による違いが存在する。つまり、必然として受け入れるのは、詰まるところ理屈の上避けられなかったという知的な受け入れであり、信仰とは異なる次元のものである。

宗教的な世界観が後退し、科学的な世界観が広まるにつれて、多くの人々が死後の世界を前提とした生き方から離れていった。これは、死を含むこの世の理不尽に対処するバッファを自ら放棄する結果となった。現代社会が理不尽を受け入れる効果的な手段を見出しているわけではなく、また、業病という概念が許容できる観点に戻ることも難しい。自己の存在や死など、科学的に解決が困難な運命的な問題に対して、私たちはどのような見解を持つべきか。

死に関する問題は、自己の死と他者の死をどちらを考えるかによって大きく異なる。自己の死は本能的に避けたいものであるが、理性的に考えれば、二度と目覚めないことと同義であり、よくよく考えればそれほど恐ろしいものではない。一方、他者の死は、二度と会えない別れを意味する。通常の別れにおいて、共に過ごした時間を振り返ると寂しさが訪れるが、それは実際にはその時間を通じて自己と他者が重なり合い、他者の一部が自己の一部となっていたからである。そして、別れによってその他者が自己から離れていく際、他者の一部が自己から消える寂しさの中に痛切さを感じるのである。その極大値が死による別れであり、特に同居する人の喪失は、心の一部に穴が空いたような感覚になる。これを考えると、他者を蘇らせたいという欲望は、自己を復活させたいという欲望の裏返しであると言えるだろう。

遠藤享氏追悼展に訪れる

横浜ボートシアター元代表・遠藤啄郎氏の実弟、遠藤享さんの追悼展に、横浜ボートシアター現代表の紗矢さんとうかがった。享さんがどのような世界を見せようとしたのかを感じ取ろうと、結構な時間齧り付いた。さまざまなレベルの対概念を組み合わせて、享さんが見ようとしたものを感じ取ろうとしているうちに、これは作品を介したコミュニケーションなのだとはっきり気づいた。この世にいない人、人格ともコミュニケーションが取れる芸術のある種の神秘に触れたひとときであった。

ご親族の書かれたキャプションにより、享さんはオーディオテクニカ創業時から宣伝デザイン・パッケージデザインをしていたことを今更ながらに知る。レコード時代の製品パッケージがいくつか展示されていた。洗練されたパッケージを見ていたら、オーディオテクニカ製品が欲しくなってしまった。生前一度だけお宅にうかがったことがあり、オーディオテクニカのこだわりなどを教えてくださった。今思えば、誠にありがたいことである。

追悼展で制作のSさんと合流し、混み合った有楽町の一角でミーティング。4月以降の予定等、細かいすり合わせ。これからペルーに行く朋さん、かなり大変そうだ。なんとなく聞いたことのある南米特有の事情がよりビビッドに伝わってきた。

2024年3月9日語りのワークショップ参加のメモ

今日は横浜ボートシアターの語りのワークショップに参加した。このワークショップは文章を読み始める前に、まずはウォーミングアップを行う。今回、このウォーミングアップの長さがなんと1時間もある。ワークショップ全体が3時間とはいえ、ここまで丁寧にやることはなかなかない。基礎を大切にする講師の紗矢さんの姿勢が出ている。ウォーミングアップという地味な部分であっても、細かく、大切なことが伝えられており、その気になってしっかり吸収すれば、受講者は役者や語り手になれるかもしれないと思えるほどだ。

長いウォーミングアップの後、ようやく台本を用いた語りが始まり、一人ずつ車引きの場面を語っていく。こちらもスイスイと進むことは全くなく、内容は最初の3行くらいをひたすら行ったり来たり。語った時、どのように聞こえるかという点から細かな指摘が入っていく。紗矢さんの言葉は優しいが、自分の身体的、精神的な状態を見透かされるような核心的な指摘ばかり。その指摘は自分のなかなか変えられない部分であり、「またか……」と内心少し凹むこともある。

翻って、皆さんは果敢に語りに挑んでいて素晴らしい。昨年の舞台と同様、参加者全員でコロスのように語る時間も取って、語りの力がどこまで自分たちを連れていくかを少しでも実感することができた。

帰り際、Kさんから音楽のワークショップもぜひとおっしゃっていただいた。自分に務められるか甚だ自信がないが、劇団と相談しながら企画を進めていくことができればと思っている。

何もできない日々

最近も相変わらず神話に関する本を読んでいる。ある本によれば、神話学者によって神話の定義が異なるらしく、一口に神話といっても何が神話なのか、あるいは神話のどんな側面を重視するかによってだいぶ違うらしいことが窺い知れる。

19世紀の神話学者フレイザーは、研究のしすぎて晩年盲目になったらしい。しかし、そんな彼は進化論的な立場で「神話→宗教→科学」という人間の認識の発展を信じており、神話を前時代的なものとみなしていた。僕がもしその認識を持っていたら盲目になるほどの熱量で神話を渉猟しないと思う。いったいどういう動機で研究していたのだろうと素朴に興味を持った。『金枝篇』はいつかちゃんと読んでみたい(真っ先に読むべきはフレイザーの伝記かもしれない)。

この記事のタイトルは「何もできない日々」となっているが、特に内容を定めて書き始めたわけではない。しかし、ここまで書いてみると、視覚を失ったフレイザーはいったいどうやって晩年を過ごしたのかが気になってきた。目が見えなくなったら、研究は困難を極めるだろうと思う。彼の晩年は何もできない日々だったのだろうか。

自分も目が悪いので、呑気な生活を送りながらも、いつか失明するのではないかと思いながら生きている。そして、失明したら「何もできない日々」が待ち受けているのではないかとも覚悟している。いやいや、琵琶法師だってスティービー・ワンダーだって盲目だけど立派に仕事をしているじゃないか。

しかし、その仕事だってあと何千年か何万年かしたら人類自体が滅亡して、何にも残らないじゃないか。じゃあそもそも仕事って何の意味があるの? 意味に何の意味があるの? もちろん意味などないのである(しかし、その無意味さは究極の自由でもある)。これは短期的な観点では現実逃避だが、長期的な尺度ではかなりの確率で起こるであろう圧倒的な「現実」でもある。

短期的な視点で考えると、仕事には他者性という欠くべからざる前提があると思う。他者の存在しない仕事を仕事と呼べるか? 哲学的にこれがどう考えれられているか正確にはわからないけど、他者なしの仕事は仕事と呼べないのではないか。ヘンリー・ダーガーやカフカみたいに死ぬまで自分の作品を発表する気もなく書き綴る行為は、芸術的創作であることは間違いない。しかしそれは仕事とは異質のものだったのだのではないか。

ここからは完全に僕の想像だが、発表する気もなく作品を作る行為というのは、届かない人にこそ届き、救いになって欲しいという思いなのではないか。孤独の深みにおいて、ギリギリ立ち止まろうとする行為だったのではないか。いや、そういう面もあるかもしれないが、なんか違う。

少し仕切り直そう。他人に対して作品を投げかける行為も、発表しない作品を作り続ける行為も、結局はなんらかの信仰に基づいて創られているように感じる。例えば前者は他者が確かに存在し、交流ができるという点において。後者においても当然他者の存在は信じられているが、それは通常の意味での他者ではない。自分の精神の内にある他者である。

今、僕は「信仰」という言葉をおおよそ他者が存在するということに対して用いている。自分の精神の内にある他者への信仰というのは、今まであまり深く考えてこなかったが、どうも直観的には僕にとってかなり重要そうなテーマである。僕は明らかに自分への問いかけとして作品を作っている節がある。

延々と書けてしまいそうだが、睡眠時間がどんどん削られてしまうのでこの辺でやめておこう。

ひとまず、作品を作るという行為はどういった信仰なのか? これが今日考えたことだ。

自己観察への見切りのタイミング

ここ2週間ほど左手人差し指の調子が悪いため、楽器を弾かないようにしている。なかなか治るのが遅いが、これはどうしても日々の生活の中で人差し指を使わざるを得ないからだろう。

自分の仮面即興を動画に撮った。自分の体の良くない部分がよくわかる。次の本番までにもっと強化をしなきゃいけないとはっきりわかる。やはり記録はちゃんとしておくべきだな。

やるべきことをやる際に、自分の感情やモチベーションをあてにしすぎると、逆に手が進まなくなる。よく人間は悪事に手を染める際に感情を殺すが、実は良いこと(もしくは普通のこと)をする時も感情に囚われない方が良い。「良いことをする時」というのは正確に言うと、「良いことを行いつつある時」と言った方がよいかもしれないけど、要は何かを行う前にどこかで感情に対する観察に見切りをつけないと、何事も行うことができなくなる。これは語りの稽古をやっている時などにもちょっと感じたことだ。

この見切りのタイミングをいつ設定するかを見極めるのが今の自分の課題の一つだ。立ったり歩いたりすることは、いかにも安定しているような気分になってしまうけど、実際体の中はとても流動的で、常にいろんな力が拮抗している結果として体勢が生まれている。精神においてもおそらく同じで、そういった意味での均衡をいつ破るかというのが見切りのタイミングでもある。日々勉強すべきことがばかりだなあ。

久々の語り公演の稽古

2020年に遠藤さんが亡くなって以降、横浜ボートシアターは語りの公演を久しくやっていなかった。新型コロナウイルスの流行、船劇場の修繕、2度に及ぶ追悼公演などのヘビーな出来事が次から次へとやってきて、小さい公演をやっている精神的余裕がなかった。今も本当は落ち着いているわけではないけど、大きな公演をいますぐやるという状況ではないため、ようやく昔のような語りの公演を開催する余裕ができた。

事務所で行う稽古は昔のままで懐かしさが蘇ってくるが、昔のままというわけではない。稽古に参加するメンツが違うし、今は演出が紗矢さんである。そして、僕自身も語りの稽古を受けている。同じような出来事でも、決して何から何まで同じにはならない。それは舞台の本番が毎回違うのと似ている。

語り公演の稽古ができるようになったとは言っても、それは余裕ができたというわけではなく、確定申告などの雑務をはじめ、水面下では相変わらずたくさんの仕事がふりかかっている。気の遠くなるような気分になりながらジミヘンを聴いていると、平衡感覚を失ってどこかにトリップしそうになる。

今日の稽古の最中、図らずも最期に近い頃の遠藤さんの話になった。思い出すといまだに少し辛いものがある。人の死というものはいつまで経っても慣れない。死というものがそれだけ特別なのだ。自分の死というものはそういう意味では逆に特別ではない。死という形で他者を失う経験の方がよっぽど空虚である。死という形での他者の喪失は、逆説的にもっとも他者を感じる瞬間の一つである。

自分にとって、そのように他者に対する強烈な感覚を呼び覚まされる瞬間はもう一つある。舞台の本番に立った時だ。これは昨年役者として舞台に立って実感した。本番中は舞台から客席はほとんど見えないのだが、それにも関わらず舞台上の役者は観客を強烈に感じ取って芝居を演じる。この時、役者はおそらく言語を絶するほど深い体験をしているが、果たしてそのことが自分をいくらか変えてしまったかまではわからない(よくよく思い出してみると、似たような感覚は人生の節目で何度かあった。しかし、舞台の本番が有数の出来事であることは確かだ)。

さて、最初に戻って語りの稽古のことになると、語りの稽古は本番並み、または本番以上に緊張する。聴いている人の顔がはっきり見えるし、腹の座り方が本番よりも弱くなりがちだからだ。本番はもう絶体絶命な状況をいわば押し付けられているので逆に問題ないのだが、極限状況まではいかない状態で他者と対面し、語るという稽古のあり方はいまだに慣れない。毎週土曜の語りのワークショップの時もめちゃくちゃ力が入ってしまう。今までなぜ緊張してしまうのかわからなかったが、今この文章を書いていて、本番と稽古では他者の性質が自分の中でちょっと違うらしいという手がかりを得た。稽古でも語るときは一人だが、ダメ出しも入ればやり取りもある。その中でどう切り替えて的確に語っていくか。そこは結局自分の責任として引き受けなければいけない。

この文章を書いている時もそうだけど、一人になった時にその人間がどれだけ力を出せるか。遅まきながら、今年はこのことにこだわってみたい。

Suno AI雑感

歌詞とジャンルを入力すると、自動で歌付きのトラックを生成するSuno AIというサービス、無料でお試しできるのでちょっと使ってみた。

Boosa nova with classical instrumentsみたいに、複雑にジャンルを指定したらイマイチだったが、1ジャンルのみでやってみたらそれっぽい感じになった。素直で熱心に勉強するが、勘の悪いが作った感じとも言える。

今のところ、このAIでできるメロディとアレンジは、体裁こそ整っているけど個性がなかったり、文脈的に微妙な音を鳴らしてくることがある。そういう意味で、作曲家として仕事をしている人の本当の意味での脅威ではまだないと思う。

今後どうなるかを想像してみたけど、たとえばこれが極まってハイレゾ音質でも遜色ないくらいの音源ができたとする。それは当然ビジネスプラン的なやつで月額3000円とかで使えるサービスになると思う。一発当ててやるみたいな人がこのビジネスプランに大量に押し寄せるだろう。あるいは、AI自動生成に特化したレコード会社とか、音源制作会社が出てくる可能性もあるだろう。

あるいは歌詞についても、今後人間に近いようなものを生み出すサービスが登場してくる可能性は高い(今もSunoには歌詞生成機能があるけど、もっとクオリティ高いものということで)。AIが作った歌詞をAIで作曲させ、良・不良の選別をしてマーケットに出す。

ここまできたら、人間の創造性は社会的に大いに疑問に付されることになるだろう。しかし、では創造って一体何よ、とも考えてしまう。AIが出したものに人間が手を加えるのだとしても、それは人間にとっての創造だろうか。外から見たら両者は区別ができないかもしれないが、作る人間の内面としては全く違う経験になる。

さらに、AIが動画やPV、公式SNSなども自動で運用するようになり、マーケット上のものが全てAI出力になったとしたら?その時、目に見えるものが全てAIであることを知りながら、人間はマーケットに出るものに魅力を感じるのだろうか。または、AIの持ち主はAI出力と悟られることを恐れて、AIであることを隠すようになるだろうか(AI出力なのに人間が作ったと偽ったら罪に問われる時代が来る予感もある。楽観的だけど)。

生身の人間の最後の居場所はライブになるのだろうか? しかし、物理的存在としても、人間と区別のつかないアンドロイドが、AIプロデュースによるライブを行ったら? AIの完璧な立ち回りの陰で、人間のパフォーマーですら、ひっそりと役目を終えるのだろうか?

だが、AIを主体的に動かすのが人間であったとすれば、使う側の人間は音楽の技術や知識には詳しくないとダメなんじゃないかとも思う。また、身体的に自分が音楽とどのように向き合ってきたかということも問われるだろう。作るプロセスは変わるかもしれないけど、本質的なところは結局変わらないんじゃないかっていう気もするなあ。

映像チェック

『新版 小栗判官・照手姫』前半の映像チェック。一人では絶対に耐えられないので、紗矢さんに付き合ってもらい、無事最後まで見ることができた。一度見れたから、次は多分一人でも大丈夫。そろそろ動画用に録音した音声もチェックしなければ。

今は小さい仕事をコツコツとこなしつつ、勉強しつつ、構想を練る期間。これは一種の猶予期間と自分は感じるが、とはいえ遊ぶ時間があるかといえば全然ないので、見方を変えると忙しいとも言える。しかし、現在の自分を忙しいとは思っていない。心に余裕があるからだろう。

ここ1〜2年を振り返ってみると、仕事の充実がいき過ぎて、忙しいと感じたケースが多かった。いくらでも仕事をしようとして限界が来る時もあれば、単純にやることが多過ぎてキツくなったという時もある。さらには、役者的な訓練を通じて、自分の意識の深いところを感じなければならなくなった時、今までやっていた仕事が我慢できなくなり、実際の稼働率以上に「忙しい」ように感じてしまった時もある。

「忙しさ」の感じ方が変わってきたことを踏まえると、今回の『新版 小栗判官・照手姫』を通じて生き方が変わってしまったとは言える。ここ1年くらいはその変化に対応しきれなかった感じがするので、これから先は、もう少しバランス良く生きることを目標にしようと思う。そのためには、生活のリズムが大事だな〜などと漠然と思っている次第。