何もできない日々

最近も相変わらず神話に関する本を読んでいる。ある本によれば、神話学者によって神話の定義が異なるらしく、一口に神話といっても何が神話なのか、あるいは神話のどんな側面を重視するかによってだいぶ違うらしいことが窺い知れる。

19世紀の神話学者フレイザーは、研究のしすぎて晩年盲目になったらしい。しかし、そんな彼は進化論的な立場で「神話→宗教→科学」という人間の認識の発展を信じており、神話を前時代的なものとみなしていた。僕がもしその認識を持っていたら盲目になるほどの熱量で神話を渉猟しないと思う。いったいどういう動機で研究していたのだろうと素朴に興味を持った。『金枝篇』はいつかちゃんと読んでみたい(真っ先に読むべきはフレイザーの伝記かもしれない)。

この記事のタイトルは「何もできない日々」となっているが、特に内容を定めて書き始めたわけではない。しかし、ここまで書いてみると、視覚を失ったフレイザーはいったいどうやって晩年を過ごしたのかが気になってきた。目が見えなくなったら、研究は困難を極めるだろうと思う。彼の晩年は何もできない日々だったのだろうか。

自分も目が悪いので、呑気な生活を送りながらも、いつか失明するのではないかと思いながら生きている。そして、失明したら「何もできない日々」が待ち受けているのではないかとも覚悟している。いやいや、琵琶法師だってスティービー・ワンダーだって盲目だけど立派に仕事をしているじゃないか。

しかし、その仕事だってあと何千年か何万年かしたら人類自体が滅亡して、何にも残らないじゃないか。じゃあそもそも仕事って何の意味があるの? 意味に何の意味があるの? もちろん意味などないのである(しかし、その無意味さは究極の自由でもある)。これは短期的な観点では現実逃避だが、長期的な尺度ではかなりの確率で起こるであろう圧倒的な「現実」でもある。

短期的な視点で考えると、仕事には他者性という欠くべからざる前提があると思う。他者の存在しない仕事を仕事と呼べるか? 哲学的にこれがどう考えれられているか正確にはわからないけど、他者なしの仕事は仕事と呼べないのではないか。ヘンリー・ダーガーやカフカみたいに死ぬまで自分の作品を発表する気もなく書き綴る行為は、芸術的創作であることは間違いない。しかしそれは仕事とは異質のものだったのだのではないか。

ここからは完全に僕の想像だが、発表する気もなく作品を作る行為というのは、届かない人にこそ届き、救いになって欲しいという思いなのではないか。孤独の深みにおいて、ギリギリ立ち止まろうとする行為だったのではないか。いや、そういう面もあるかもしれないが、なんか違う。

少し仕切り直そう。他人に対して作品を投げかける行為も、発表しない作品を作り続ける行為も、結局はなんらかの信仰に基づいて創られているように感じる。例えば前者は他者が確かに存在し、交流ができるという点において。後者においても当然他者の存在は信じられているが、それは通常の意味での他者ではない。自分の精神の内にある他者である。

今、僕は「信仰」という言葉をおおよそ他者が存在するということに対して用いている。自分の精神の内にある他者への信仰というのは、今まであまり深く考えてこなかったが、どうも直観的には僕にとってかなり重要そうなテーマである。僕は明らかに自分への問いかけとして作品を作っている節がある。

延々と書けてしまいそうだが、睡眠時間がどんどん削られてしまうのでこの辺でやめておこう。

ひとまず、作品を作るという行為はどういった信仰なのか? これが今日考えたことだ。

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