新鮮であるとはどういうことか?

前回の自分の投稿のように、ともすればすぐに冷笑的になってしまうくらい情報が溢れかえった現代において、心の新鮮さを失わないようにするにはどうすれば良いか? 文脈を意識する(「文脈を味わう」とも言えそうだ)、というのが前回提示された一つの解決策である。

クラシックの現代音楽において古楽が大きく盛り上がっているのも、古楽が一度失われているという「文脈」あってこそのものだ。その文脈において、演奏家、楽器製作者(復元者?)、聴衆、音楽史家などにとっては、「古楽」はとても新鮮なものと感じられるだろう。

一方で、アイディアの面でオリジナリティを発揮することが至難の業である一作曲家としてはどんな「新鮮さ」が期待できるだろう?

客観的な「新鮮さ」というのは、本当に大変なことである。変なことをやれば良いというものではないし、大体において変なことというのはやっぱりどこかの誰かが既にやってしまったものだ。

変なことが絶対にダメとも言い切れないが、その線でやっていくのが厳しいとなったら、今まで他の誰かが通ってきた道を多少なりとも踏むことになる。

そういった踏み固められた道をどう踏むか。その点に全てがかかっている。この「どう(HOW)」と「道(手法・手段)」に関わるパラメータは無数に存在する。ここでいう「どう(HOW)」はどちらかというと音楽の実質的内容ではなく、社会状況などの文脈において自己や作品をどう位置付けるかといったような意味で、「道(手法・手段)」は楽器や理論その他の音楽の具体的内容に関わるものと考える。

現在は「道(手法・手段)」をポストモダン的にガラポンして組み合わせた表現は音楽に限らず非常に多いような気がする。なんでもかんでも組み合わせれば良い、という発想だ。

しかしながら、僕は社会状況や自己が「どう(HOW)」作品に関係あるのか、という部分を抜きにして創作をすることができない体(?)になってしまった。それは横浜ボートシアターのおかげでもあるし、自分自身がもともと創作を自己満足的かつ切実な営為と位置付けていたからでもある。

しかしいかに切実であろうとも、自己満足なだけの創作物は発表する意味がない。発表するからには、それが社会や自己とどう繋がっているのか、別に内容が社会的であれということではなく、社会に投げ込んだときにどんな新鮮さを持ちうるか、ということを少なからず意識しなければならない。

創作というのはそういう意味でとてもしんどいが、ロベルト・バッジョも二つ道があればより困難な方を選べと言っていたし、確かお釈迦様も似たようなことを言っていた。偉人たちの背中を追って日々精進するのみである。

「”新しい”音楽」という言葉の意味

音楽に関わる人間として、今後どんなことをやっていけばいいのか。 忘れた頃に何度も思い出したように浮上してくる問題だ(いやいや、いつも気にしてますよ!?)。

自分の限られた視野に基づいた考えなので与太話程度に読んでもらいたい面もあるが、今の自分の基本的な前提としては、音楽の新しさに関する可能性はほぼ残っていない。音楽という可能性の枠はすでに開拓され尽くされ、その中で細かな技や完成度を競っているのが今の「新しい」音楽なのだ。 音楽において、もう発想的に新しいものを作る可能性がないとすれば、今を生きる作曲家は何を作れば良いのか。

随分悲観的な言い方だな、と自分でも思うが、ふと「新しさ」という言葉を無批判に使っていることに気づいた。 「新しさ」というのはその一言では言い尽くせない色んな意味合いがあって、特に創作を志すものにとっては生きがいに直結するような概念だ。

しかし結局経験の蓄積・それに応じた感覚の変化が「新しさ」という言葉の実質的な意味をいつの間にか変えてしまった。にも関わらず、自分は昔と同じような「新しさ」の質を求めているから苦しいのではないか。

自分が固執する「新しさ」は、過去の自分が何かを新鮮に感じていた経験に根ざす。 自分にとって新しかった、斬新だったと思われるもの、それを見聞きした経験はとても眩しい。 しかしそういう「新しかった」とされるものをよく観察すると、その新しさの源泉は既存のものの組み合わせであったりする。 それに気づいてしまった現在では、かつて味わったあの感覚の再来は望むべくもない。

では今自分が「新しさ」を定義するとすればそれは何か。残念ながらその問いに対する答えは持ち合わせていない。のみならず、今はそれより優先しなければならないことが一つある。

それは、「新しさ」がフーリエ変換のごとく一瞬で組み合わせへと還元されるとしても重要なことだ。その時その場で自分が心の新鮮さを保っていられるかどうか。表現を創り上げる過程で感じる「新鮮さ」は創作を続ける上での生命線である。

例えばクラシックの業界では「古楽」が流行ったと聞く(現在進行形なのだろうか?)。それは現代音楽において「新しい」ものが出尽くしたがゆえのある種の「回帰」であることは間違いないが、「古楽」を復元するということは創作者にとってとても刺激的なことでもあるのだと思う。実際、聴いていると面白い曲もかなりある。クラウディオ・モンテヴェルディの曲の中にはポップスかと思うような4コードの循環進行一発の曲があったりする。

当然4コードの循環進行を今自分がやっても何の「新しさ」もないが、「古楽」という「文脈」の中でそれを扱う時(鑑賞する時)、とても「新鮮で面白いもの」に変わり得るのだ。しかも、それが自分以外の人間と共有できる「文脈」であれば、それは一定人数の間(社会)において意味を持つ。

というわけで、「文脈の中での新鮮さ」を追求するのが当面の課題であるのだが、そこで再び難題が立ちはだかる。どんな「文脈」を前提に置くかということだ。実はどんな「文脈」を選ぶかということは死活問題になる程重要なのだが、一番考えるのが大変なので自分も含め多くの人が失敗し続けている(もしくは代わり映えのしないものばっかり)、と自分では思っている。

あんまり長く書いてられないので、今日はこれくらいにしておこう。このテーマの続きは、気が乗ったら書きます。

畑違いの役者というポジションで責任を負った結果、得た教訓

3月10日(日)、17日(日)に横浜ボートシアターの公演で音楽をつけます。詳細はこちら。現在年度末的な作業他をやりながら仕込み中。


僭越というか場違いというか、2年ほど前に一度だけ役者として舞台に立たせていただいたことがある。作品はとても素晴らしかったものの、個人的にはボロボロでどうしようもなかった。しかし、取り組んだ期間において色々と得るものがあった。以下は当時のメモに手を入れたもの。


役者はとにかく人並み以上に体を大事にしないといけない。例えば風邪を引いてもとりあえず演奏はできるが、役者は声を使うので風邪を引いたら相当ヤバい。

役者としての期間を過ごしたことで得た一番のものは、体の状態に敏感になるということ。 自分の体がまずい方向に行っているな、ということに以前よりも早く気づけるようになったので、少しずつではあるが、体の問題、声の問題に改善が見られるように思う。

体と声は表裏一体で、体の状態が違えばかなり声の出方がかなり違うということが実感としてわかってきた。また、声をよく通るように出すときの体の支えが、身体のみならず、精神にとっても落ち着きをもたらすことがわかってきた。良い声を出そうとすれば必然的に良い体へと近づくのではないか。

それから、体の変化に敏感になったおかげで、眠気に対する力技ではない対処ができるようになった。自分の場合、目の乾き、目の筋肉等も含めた身体のどこかの緊張と凝りなどが眠さの原因であることが多い。

このように体に対する気づきを与えてくれた劇団に感謝している。


畑違いのことで重大な責任を背負うことというのはあまりないことだが、機会があれば受けてみるべきなのかもしれない。自分の普段のポジションにはない新たな気づきが得られるからだ。