2021年の自分の仕事を振り返る

昨年の上半期は横浜ボートシアター『白い影絵〜石原吉郎「望郷と海」および詩篇より〜』の音楽をはじめとした様々な業務が大半。

まず『白い影絵〜石原吉郎「望郷と海」および詩篇より〜』だが、昨年12月に作品の創作自体がかなり行き詰まり、重苦しい雰囲気で稽古をすることが多かった。加えて新型コロナウィルスの感染者数が増加して、1、2月中の稽古は中止となる。お世辞にも「稽古は順調です!」と広報できるような状況ではなく、鬱々と年を越す。確かこの頃にコロナの状況を鑑みて事業の実施年度を跨いでもOKということになり、公演が3月から6月に延期になった。

その延期も手伝ってか、1月、2月と間をあけることで逆に落ち着いて客観的に作品を眺めることができるようになった。この時期に紗矢さんは船劇場で演技エリアの変更を試行したり、スクリーンに映すフィルム画の準備を始めた。そういった作業の手伝いが多かったせいもあり、自分が音楽的に何を準備したかはあまり覚えていない。

そういえば、この時期に奥本くんの『操り剣舞』や、のちに10月にちゃんとリリースすることになるあめたちの楽曲を仕込んでいた。『操り剣舞』は、音楽的には2〜3回合わせただけで撮影で全くのノーダメージであったが、あめたちは歌を録音させてもらった後に凄まじく苦労し、横になっても動悸で寝られず、心身の不調を4月頭くらいまで引きずっていた(以降、秋くらいまでは本気を出して集中モードに入るのが怖かった)。

そんな最中に『白い影絵』のチラシの作業が入り、これもかなり苦労する。今までは作品の全体像がはっきり見えたものしか取り扱っていなかったが、今回は結末がまだ見えきっておらず、ビジュアル的要素も試行錯誤の最中であった。僕は基本的に最初から完成形を下書きすることはできない人間なので、手を動かしながらチラシのビジュアルを作る。写真を原型がなくなるほどいじったのは随分久しぶりだった。

6月、晴れて『白い影絵』の本番を迎える。非常に好意的な意見もあれば、酷評する人もいた。石原吉郎の非常に硬質な手記と彼の難解な詩から出来た台本であるから、観る方にかなりの負荷がかかるであろうことはよくわかる。創作する側としては、詩が生まれる瞬間を表現するような舞台でとても面白かった。詩人というのは、巫女的な霊感がないといけないんじゃないかと思う。凄まじく暑い船内でシベリアの舞台が繰り広げられ、やる方も見る方も頭が混乱しそうな本番であった。

6月20日に説経節政大夫師の『愛護の若』最終回に演奏で参加した。『白い影絵』本番直後で、自分の頭の中も真っ白。残念ながら、あまり記憶が残っていない。7月にも、もう一度政大夫師の演奏に伴奏で参加。政大夫師が萩原朔太郎の詩につけた歌は密かな人気がある(この時期に、半年後、説経節についてむちゃくちゃ考えることになるとは正直思ってもみなかった)。

7月から8月にかけて『白い影絵』のDVD・配信映像の編集、パッケージ製作、宣伝などをやっていた(この時期に練習できたのは、後々のことを考えるとかなり良かった)。あとは、夏は船劇場が使えないので、ぼーっと楽器の練習ばかりしていた。

9月に、これから数ヶ月の間、1ヶ月ごとに一つ一つ目玉を作って宣伝していこう話を劇団としていた矢先に、船劇場の修理勧告が劇団に通達される。ここから怒涛の日々が始まったが、それでも9月から11月までに考えていた予定は大体クリアできた。今思えば結構頑張ったなと思う。

さて、この時期に僕は横浜ボートシアターの劇団員になることを決めた。劇団員になったからといっても、やってることは結局何も変わらないが、気持ちの問題として逃げ場を塞いだのである。客観的に見れば大きな転機だが、それよりも船劇場の今後のことの方が気にかかって、現在でも劇団員になったという現実感がない。この現実感のなさは、通過儀礼が廃れた現代人特有の、のんべんだらりとした時間感覚と言えるだろう(これを逆説的にいえば、通過儀礼がないと人間は現実感が保てないのではないかという仮説にもなるが、果たしてどうだろうか)。

年末くらいからだろうか、ストレッチを意識的に行うようにしている。始めた理由は、自分の姿勢の悪さが体の硬さからきているように思えたためだ。また、右の股関節がうまく使えないことからくる、左右の体のアンバランスさも改善したかった。恥ずかしいくらい硬い体であるが、やればかなり効果が出るので継続したい。

こうやって書いてみると、生々しい思い出や肌感覚が想起されて結構疲れる。これからはあまり溜めないようにして、少しずつ書いてはその時の感覚を供養してあげたほうがいいのかもしれない。