2020年に遠藤さんが亡くなって以降、横浜ボートシアターは語りの公演を久しくやっていなかった。新型コロナウイルスの流行、船劇場の修繕、2度に及ぶ追悼公演などのヘビーな出来事が次から次へとやってきて、小さい公演をやっている精神的余裕がなかった。今も本当は落ち着いているわけではないけど、大きな公演をいますぐやるという状況ではないため、ようやく昔のような語りの公演を開催する余裕ができた。
事務所で行う稽古は昔のままで懐かしさが蘇ってくるが、昔のままというわけではない。稽古に参加するメンツが違うし、今は演出が紗矢さんである。そして、僕自身も語りの稽古を受けている。同じような出来事でも、決して何から何まで同じにはならない。それは舞台の本番が毎回違うのと似ている。
語り公演の稽古ができるようになったとは言っても、それは余裕ができたというわけではなく、確定申告などの雑務をはじめ、水面下では相変わらずたくさんの仕事がふりかかっている。気の遠くなるような気分になりながらジミヘンを聴いていると、平衡感覚を失ってどこかにトリップしそうになる。
今日の稽古の最中、図らずも最期に近い頃の遠藤さんの話になった。思い出すといまだに少し辛いものがある。人の死というものはいつまで経っても慣れない。死というものがそれだけ特別なのだ。自分の死というものはそういう意味では逆に特別ではない。死という形で他者を失う経験の方がよっぽど空虚である。死という形での他者の喪失は、逆説的にもっとも他者を感じる瞬間の一つである。
自分にとって、そのように他者に対する強烈な感覚を呼び覚まされる瞬間はもう一つある。舞台の本番に立った時だ。これは昨年役者として舞台に立って実感した。本番中は舞台から客席はほとんど見えないのだが、それにも関わらず舞台上の役者は観客を強烈に感じ取って芝居を演じる。この時、役者はおそらく言語を絶するほど深い体験をしているが、果たしてそのことが自分をいくらか変えてしまったかまではわからない(よくよく思い出してみると、似たような感覚は人生の節目で何度かあった。しかし、舞台の本番が有数の出来事であることは確かだ)。
さて、最初に戻って語りの稽古のことになると、語りの稽古は本番並み、または本番以上に緊張する。聴いている人の顔がはっきり見えるし、腹の座り方が本番よりも弱くなりがちだからだ。本番はもう絶体絶命な状況をいわば押し付けられているので逆に問題ないのだが、極限状況まではいかない状態で他者と対面し、語るという稽古のあり方はいまだに慣れない。毎週土曜の語りのワークショップの時もめちゃくちゃ力が入ってしまう。今までなぜ緊張してしまうのかわからなかったが、今この文章を書いていて、本番と稽古では他者の性質が自分の中でちょっと違うらしいという手がかりを得た。稽古でも語るときは一人だが、ダメ出しも入ればやり取りもある。その中でどう切り替えて的確に語っていくか。そこは結局自分の責任として引き受けなければいけない。
この文章を書いている時もそうだけど、一人になった時にその人間がどれだけ力を出せるか。遅まきながら、今年はこのことにこだわってみたい。