宮間あいのサッカー界復帰記事を読んで思ったこと

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「サッカーは人生の縮図みたいなもの。サッカーにも、人生にも、間違いはないんです」

サッカーは人間観、人生観の幅を広げるに足る存在であることを宣言しているかのようだ。やりたいこと、好きだったこと、大切なものを一度失い絶望した人間が言う言葉として、とても重い。

宮間は、日本サッカー協会や日本女子サッカーの維持・発展という大きなスケールまで自然に繋げるというモチベーションや問題意識を、引退後長い時間をかけて獲得した。しかし、それは全く一筋縄なことではなかった。彼女は自分の価値観と周囲の状況のギャップに悩んで耐えられなくなり、一番好きだったサッカーに対する熱が維持できなくなり引退した。

女子ワールドカップで日本が優勝した際、彼女は本気で世界一を目指すという覚悟のもとに、過剰なまでの献身性を発揮したらしい。しかし、修行にも近い滅私奉公的なスタンスは、ワールドカップという極限的な状況から遠ざり、生活に直結する次元に戻ってくると、過剰な在り方になってしまう。その凄まじいエネルギーのやり場がなくなったと気づいた時の絶望感は、烏滸がましいことではあるが、どこか自分と音楽の関係において経験したことに近いような気がする。

しかし、宮間は「人が喜ぶ姿を見たい」という自分の核心的なモチベーションを維持し、引退翌年には起業するなどさまざまな経験をしたという。この行動力は本当にすごい。自分にはできない。そして、そのモチベーションの延長線上に再びサッカーを見出し、女子サッカーへと再び関わるようになった。この復帰には宮間自身の資質も非常に大きいが、それがサッカーを通じて育てられたということも、きっと言えるのだろう。

自分が小学生の頃所属していた野球チームで、卒業間際に「なんでも良いから球技は続けてほしい」と言っていた老コーチのことを思い出した。コーチがそのように言ったのは、団体競技を続けて社会性を身につけてほしいという意図だったのかもしれない。宮間のこのようなエピソードを聞いて、ふとそんなことを思った。


球技という営みは100%の遊びで100%の無意味でありうるからこそ、あらゆるものが入り込んでくる。自分よりも速く、高く舞い上がる球体に、人は意味からの解放を見出しながら、再び自らの文脈で意味を重ねていく。大袈裟にいうならば、それは世界を作り変えていくプロセスなのかもしれない。

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