横浜ボートシアターの方々と関わっていると、よく「詩的表現」という言葉が出てくる。意味合いとしては、なんらかの飛躍した表現であったり、象徴性のある表現だったりする。そういう文脈での「詩」は、劇団との付き合いももう10年になるので、ある程度わかっていると思う。
しかし、自分はいまだに詩が読めている自信がない。何度か散発的にチャレンジしたことがあるが、その度中途半端に終わっている。
最近、新たな企画の必要性から詩を読む機会が増えた。何らかの強制力がかかると、理解への圧力が段違いなので、これ幸に企画と直接関係ない詩集も読んでみた。
最初はやっぱり何が面白いのか理解できないのだが、同じ作者の詩をいくつも読んでいると、その人のカラーというものがだんだんわかってくる。わかってくると、その色に応じた読み方がなんとなくできるようになってくる。すると、素通りしてしまう詩と、なんとなく目に止まる詩にわかれてくる。自分なりの詩に対する感覚が少しはできた、ということなのかもしれない。
詩についてもう一つ面白そうだと思う切り口は、日本における詩の歴史である。明治初期の詩のアンソロジーを読んだら、いまは当たり前の口語詩が、かつてはまったく当たり前でなく、ある種の発明であったことがよく体感できた。知識では口語詩、新体詩というものが発明されたことは知っていたが、その前にどんな詩があったのか(和歌、俳句等でなく)、ということになると意外とイメージが湧かないものだとそのとき初めて気づいた。ちなみに、文語詩でかなり有名な部類に入る「若菜集」は、調べたら1897年。ということは明治後半と言っていい時期だ(ついでに言うと樋口一葉はすでに亡くなっている)。この頃すでに一葉は古風な作風だと認知されていたらしいので、「若菜集」の文語詩もそれなりに古風な趣だったのではないか(内容的にはロマン主義で新しかったのでしょうが)。
閑話休題。先述したアンソロジーに取り上げられた詩人たちは、ヨーロッパ的な要素を取り入れようとギリシャ神話などを題材にしているのだが、言葉は完全に文語で、漢語も多く、しかも七五調。今読めばわざと難しく書いているようにしか思えないが、新しい時代にふさわしい詩を作ろうと必死だったことは想像に難くない。激しい格闘の中で生まれた果実を存分に味わえる現代は幸せである。
さて、自分としては、こんなことを考えているうちに、詩を楽しめる予感がしてきた。わからないことにぶち当たった時、それが自分にとってもし大切だったら、それをいかに自分と繋げるかということが大事である。
今回は、「仕事上の強制力が働いたこと」、「一人の詩人に親しんだこと」、「口語詩が歴史的な挑戦の堆積の成果と実感できたこと」、という三つのくさびを詩に打ち込むことができたので、詩を読むためのとっかかりができたように思う。
(2020年1月11日 大幅に追記)