カリガリ博士

「洞熊学校を卒業した三人」の初演が迫っている。初演というのは結構しんどい。特に現代劇は作品ごとにスタイルを都度見つけていかなければならない宿命を背負っている。何か既存のものをあてがうことは簡単だが、そこから一歩でも踏み出そうとすると虚無にも似た広大な地平が広がっている。アイディアにも増して、技術的に可能なのかという問題も常に頭を悩ませる。

以上のように問題山積の状況下、本当はこんなことを書いている暇に作業しろという感じではある。しかし、昨日、「カリガリ博士」を観てしまった。観てしまったと言っても1時間程度の作品だからそこまで大した時間ではない。そして、観てしまったからには感想を書こうと思う……

「カリガリ博士」は1920年の作品ですでに著作権が切れているらしい。しかも、(オリジナルはどうか知らないが)音楽もクラシックからなので完全に著作権フリー。Amazonプライムには打って付けの映画だ。

まずこの作品はセットが面白い。こんな形の窓ってあるのか?という斜めに傾いた窓をはじめ、モダニズムだかキュビズムだか近未来だかよくわからない妙な舞台装置のオンパレード。白黒のわかりづらい映像で見栄えと視認性を確保するため、わざと変な舞台装置にしているのかと察しながら観ていたが、エンディングの後、本当の意図は別のところにあったのだと納得した。作品の物語と美術のスタイルに統一感があるというのは素晴らしい。自分の舞台音楽もこうありたいもの。

作品のWikipediaを読んで思い出したが、演技の誇張も印象的だった。これにもやっぱり物語と関連づけられた意味がある。確かAmazonプライムのコメントで、マリリン・マンソンを初めいろんな人が「カリガリ博士」をアイディアを下敷きにしてビジュアルイメージを作っているという話もあった。記憶を辿ると確かにそうだろうな、という感じはする。

1920年の作品にネタバレもへったくれもないかもしれないが、ストーリー的には大きなどんでん返しがあるので詳細は省く。途中、ちょっと話が飛んでいるような気がしてシーンの意味がわからなくなる瞬間もあった。でも、終わってみれば「まあ、ああいうことなのかな」と察しはつくので、途中で投げ出さず最後まで観ることをお勧めします。

Adobe Premiere Proで(ちょっとだけ)nanoKONTROL2を使う

ちょっと前に書いたソフトシンセでマウスを使いたくない病が動画編集にも感染して、MIDIコントローラーでPremiere Proの操作ができないか調べてみました。

Adobeのヘルプなどを見たら幸運にもできるようなことが書いてありました。しかし具体的に手持ちのnanoKONTROL2ならどんな風にやればいいのかという情報が全然ないのです。ちまちまといじっていたらそれなりに使えるようになったのでここにわかったことを書きます。使う人が少ないからなんだろうけど、あまりにも具体的な情報が少ないので載せておきます。

自分用のメモなので情報は雑です。あらかじめご了承ください。

ちなみに環境はPremiere Proは2018年Macバージョンです。

nanoKONTROL2の起動モード

まず最初にnanoKONTROL2の起動モードはAbleton Liveでやりました。Protoolsモードが意外と(?)全然ダメで、次にLiveモードで起動したらそこそこ行けたので他のモードは試してません(なので、他のモードの方が良い結果になることはあり得ます)。なお、nanoKONTROL2の起動モードについてわからない方はnanoKONTROL2のマニュアルをググってみてください。

以上お含みおきの上で、まずは成果報告から。

成果

  • 「SET」のボタン二つには機能が割り当てることができない。
  • Cycle, MARKER SET, MARKER←, MARKER→には任意の機能を割り当てることが可能。
  • 巻き戻し・早送り・停止・再生・録音はそれ相応のコマンドが固定で割り当てられる。
  • フェーダー・パンポット・ソロ・ミュートは音声トラックに自動的に割り当てられる(おそらく8トラック分)

つまり、実質的に自由に機能をアサインできるボタンはCycle, MARKERSET, MARKER←, MARKER→の4つだけ。それでも使う価値があると思うかどうか……結構微妙?まあ、割り当て次第でそこそこ使えるかもしれません。

以下、具体的な設定。

Premiere Proの設定

以下の設定を済ませた上で、

・まず、『 環境設定>コントロールサーフェス 「追加」』をやる
・ デバイスクラス:Mackie
・デバイスの種類:Logic Control
・MIDI入力:nanoKONTROL2 SLIDER/KNOB

Premiere Proで表示されるMackie Control プロトコルとnanoKONTROL2の割り当て対応

Premiere Pro / nanoKONTROL2

Marker / MARKER ←
Nudge / MARKER →
Cancel / MARKER SET
Cycle / CYCLE

機能を割り当てする画面ではPremiere ProのMackie Controlプロトコルのみが表示されているので、Premiere ProでMarkerと表示されていたらnanoKONTROL2のMARKER←だな、と考えればよいということです。NudgeだったらnanoKONTROL2のMARKER→。以下略。この4つによく使う機能を割り当てればそれなりに便利……かな?

その他のボタン・フェーダー等の動作状況

巻き戻し・早送り・停止・再生・録音

巻き戻し・早送り:音声つきの逆再生・再生(何度か同じ方向のボタンを押すと速さが変わり、ある程度の速さになると音声は再生されなくなる)

停止:再生中なら停止してくれる

再生:止まっているときに押すと再生、再生しているときに押すと一時停止

録音:再生中に押すとアクティブになっているトラックでオーディオ録音が始まる(ちゃんと確認してない)

フェーダー・パンポット・ソロ・ミュート

おそらく1〜8までのトラックのオーディオミキサー的な操作が可能(Premiere Proデフォルトの数トラックでは完全に動作していた。8トラックまで増やした際に全部ちゃんと動くかどうかは確認していない)。

(個人的には動画編集でこんなにオーディオトラックいらないので、この部分を他の機能にアサインできたらいいんだけどなあ)

ソフトシンセによるマウス酷使から体を守るための悪戦苦闘

まず最初に、横浜ボートシアター「樋口一葉作品を語る」3月10日(日)大森公演が無事終わりました。ご来場いただいたみなさま、ありがとうございました。知り合いの方、初めての方も含め、終演後に声をかけていただき嬉しかったです。「以前の公演ではあなたの音は邪魔だと思っていたが、今ではあなたの音じゃないと駄目なんだと思うようになった」という過分なお言葉もいただきました。照手(愛護の若だっけ?)の台詞に「文にて人を殺すとはこのことか」みたいなものがあったかと思いますが、これを言われた時、間違いなく僕は殺されました!

さて、本題(の前置き)。

最近マウス作業が多く、右肩甲骨の張りが尋常でない。マウス作業増加の背景には色々理由はあるのだが、現在一番の原因は、ソフトウェアシンセサイザーの音作り。

ソフトウェアシンセというのはPCの中で使えるバーチャルなシンセサイザーのこと。PCでの音楽作りがもはやデファクトスタンダードと言っても良いくらいの時代になった昨今では、「有償・無償」「減算・加算・ウェーブテーブル方式」等々膨大な種類が存在している。

ハードウェアのシンセサイザーを一台買うのに比べればソフトウェアシンセは省スペース(PC一つあれば良い)だし、比較的値段も安かったりするので、居住空間が狭い日本人にはとてもありがたい。

我らの身体を蝕むソフトシンセの例

Massive

今いくつか研究しているシンセの一つ、Native InstrumentsのMassiveというド定番シンセは、とにかくパラメーターが多い。

このスクリーンショットで見えているのだけで28個白いノブがあるが、それらを制御するモジュレーション部分にもたくさんノブやらボックスやらがあり、しかもこのスクリーンショットの画面においてもノブ以外でイジれるところはまだまだたくさんある。多すぎていちいち数えたくない。ただ、「たくさん」イジれる場所がある、とだけ言っておきたい。(もしこれがハードウェアシンセだったらどれくらいの大きさになるんでしょうね?)

Operator

次に、Ableton Liveという音楽制作ソフトウェアに入っているOperatorというシンセ。これもスクリーンショットでざっと数えてノブが22。しかしこのシンセはボックスやら数字で表示されている箇所やらが大体全部数えられるので、やはりイジることのできる箇所は「たくさん」なのである(ところでNative Instrumentsと比べると、Abletonのレイアウトは無駄を廃していてとても見やすいなと思いません?)。コンパクトな外見のクセして相当たくさんパラメーターがついている!

ちなみにこのシンセにも、スクリーンショットでは隠されている部分が7箇所存在し、そこにも相当量のパラメーターがある。合計でいくつあるか数えきる前に寿命が尽きそうです。

FM8

あと、今はまだイジってないですがそのうち研究したいと思っているNative InstrumentsのFM8。

左のメニューっぽいところをクリックするとそれぞれ違う画面になって、知的好奇心とゲンナリ感が同時に湧いて頭が混乱します。

対策(本題)

さて、実はここからが本題。以上で見てきたように、現代のソフトウェアシンセサイザーの多くは、イチから音作りをする場合ものすごい量のマウス作業が発生してしまう。こういうことを1日中やっていると、腕がシオマネキみたいになるか、その前に肩腕が壊れるか、というレベルで酷使してしまう。

こういう事態をもちろんメーカー側は把握していて、例えばNative InstrumentsやAbletonなどはマウスでの作業量を減らしてくれるような、使い勝手の良い自社製コントローラーを販売している。しかし、コントローラーとして潰しが効かないんじゃないかという疑念や、専用のものを買うなんてなんか癪という気分的な問題もあり、購入にはいたらず(ちなみにAbleton Liveに特化したコントローラー、NovationのLaunchpadは2種類持っていますが、これは別枠)。

考えられる限り、そういう人が取るべき方策は三つ。

  1. マウス作業を減らせるようなコントローラーを導入する(今回はiPadアプリ等のタッチスクリーン系コントローラーは除外)。
  2. マウス作業そのものが身体的負担の少ないものになるよう投資する。
  3. 自分でケアする/マッサージ・整体などに行く。

自分は3.の自分でのケアを主軸にしつつ、ちょっと前は2.にあたるようなトラックボールも使っていた(しかし壊れた)。

1.の筆頭に当たるMIDIコントローラーはあくまでオートメーションを書くときなどが主体で、マウス作業を楽にするという発想ではやってこなかった(それで十分だった)。

しかし、先述の通り最近はマウスでの作業量が異常に増えたので、とうとう体が悲鳴をあげつつあり、昨日などは息を吸っただけで右肩が痛くなるくらいまで悪化してしまった。流石にこれはヤバい。

というわけで、自分なりに対策を考えた。

トラックボール

まず最初に、トラックボールを使う。これで実際どれくらいの負担軽減になるかはわからないが、身体的な問題だけでなく省スペース性も同時に達成できるので導入決定。

MIDIコントローラー

次に、マウス作業を減らすためにMIDIコントローラーを使う。特定のソフトウェアを対象にしたものだと先ほど書いたように若干心理的に微妙なので、今手持ちのもので一番良さそうなものを見繕って見た。まず良さそうなのは、BEHRINGERのBCR2000。言わずと知れたツマミお化けのMIDIコントローラーである。机に収まるかな……という問題を別にすればなかなか良い。

これをどういう風に使うかが問題だ。

サードパーティー製シンセの場合

まず、MassiveはMIDIコントローラーの割り当てを保存できる(っぽい)。複数トラックにMassiveをロードしてもその都度同じコントローラーのツマミでパラメーターを変更できる(っぽい)。だから、複数トラックにMassiveを立ち上げた際特に工夫しなくても、同じコントローラーの同じツマミで同じパラメーターをいじれる(っぽい)。

次にFM8。Massiveと違って右クリックしてもMIDI Learnのメニューが出てこないので注意。右上NIのロゴ左にあるMIDIジャックのアイコンを押すとMIDIラーンモードに入る(ここまでググって確認済み)。そして、アサインした結果が右側のダークな表にリストとして出てくる(はず)。SaveとかLoadボタンがあるので、コントロールの方法を保存できる(はず)。だから、複数トラックにFM8を立ち上げた際特に工夫しなくても、同じコントローラーの同じツマミで同じパラメーターをいじれる(はず)。

以上のDAW付属でないサードパーティー製シンセ(と言ってもNative Instrumentsだけだが)についてはコントローラーを快適に使う目処がついた。

DAW付属のシンセの場合(Ableton Live)

さて、次はOperator。Ableton LiveのMIDI CCアサインは一つのCCメッセージ(つまりはMIDIコントローラーのノブ一つ)につき特定のトラックの特定パラメーターという縛りが課されるため、複数トラックに立ち上げたOperatorを自在に操るということは難しい。

結論から言うと、Ableton Liveのシンセを気楽にMIDIコントローラーでエディットしたいという場合は、Remotifyという会社のControl Surface Studioというアプリを使うのが(時間も含めた)費用対効果が高そう。

https://remotify.io/product/control-surface-studio

仮にこいつを使わない場合どうするのがマシなのか考えてみる。

  1. 新規プロジェクトのトラックにOperatorを立ち上げる。
  2. 気の赴くままにMIDIアサインする。
  3. その状態でプロジェクトを保存し、以後この音作り用プロジェクトで音作りをする。

この場合の難点はもちろん音作りを別プロジェクトでやらなきゃいけないことにある。トラックを作るときに一から新しい音を作る必要性に駆られた際、結構不便。どうしてもサードパーティー製のシンセを使う頻度が増えそうだ。

DAW付属シンセの場合(Logic Pro X)

ちなみに、Logic Pro Xだとプロジェクトを跨いだMIDIコントローラーの割り当てが可能で、割り当てのプリセットの保存・読み込みもOK。ただ、同じシンセを複数トラック立ち上げる場合は音作り用のトラックでエディットを済ませた後にプリセットを保存→別トラックで新規立ち上げ→プリセット読み込みといったワークフローにする必要がありそう。まあ、これくらいだったらそこまで不便に感じなさそう(多分もっと突っ込んだ設定もできるだろうけど)。

余談

ソフトウェアシンセが大量に溢れる昨今、ハードウェアシンセ/エフェクター/ミキサーがいまだに好まれるには音以外にも上記のような事情がありそうだなと思いました(ハードシンセは体に優しい!?)

ところで、パラメーターが多いシンセは、複数のパラメーターを同時に動かすためのメタパラメーターみたいなものがあり、それをMIDIコントローラーにアサインしてね、と言わんばかりの設計になっていることが多いようです。しかもそのメタパラメーターは8つであることが多い。これは人間の認識の限界に基づいた設計なのかなあ、なんて感じます。

Logic ProのAlchemyは他のDAWでも動くようにして欲しいと切に願わせるシンセなのに、Logic ProはRewireのスレーブにならないんで悲しいです。まあ、Logic→Abletonの順で立ち上げてAbletonからIACバスでMIDIを送り、Logic側の発音をループバックしてAbletonに持ってくればとりあえずAbletonでMIDIを制御しつつ録音も可能ではあるのだけど……。

なお、一度ハードシンセを手元に置いて触っておくと、音楽制作のワークフローの見直しもできてとても良いということが最近わかりました。ハードシンセもとても良いものです。

新鮮であるとはどういうことか?

前回の自分の投稿のように、ともすればすぐに冷笑的になってしまうくらい情報が溢れかえった現代において、心の新鮮さを失わないようにするにはどうすれば良いか? 文脈を意識する(「文脈を味わう」とも言えそうだ)、というのが前回提示された一つの解決策である。

クラシックの現代音楽において古楽が大きく盛り上がっているのも、古楽が一度失われているという「文脈」あってこそのものだ。その文脈において、演奏家、楽器製作者(復元者?)、聴衆、音楽史家などにとっては、「古楽」はとても新鮮なものと感じられるだろう。

一方で、アイディアの面でオリジナリティを発揮することが至難の業である一作曲家としてはどんな「新鮮さ」が期待できるだろう?

客観的な「新鮮さ」というのは、本当に大変なことである。変なことをやれば良いというものではないし、大体において変なことというのはやっぱりどこかの誰かが既にやってしまったものだ。

変なことが絶対にダメとも言い切れないが、その線でやっていくのが厳しいとなったら、今まで他の誰かが通ってきた道を多少なりとも踏むことになる。

そういった踏み固められた道をどう踏むか。その点に全てがかかっている。この「どう(HOW)」と「道(手法・手段)」に関わるパラメータは無数に存在する。ここでいう「どう(HOW)」はどちらかというと音楽の実質的内容ではなく、社会状況などの文脈において自己や作品をどう位置付けるかといったような意味で、「道(手法・手段)」は楽器や理論その他の音楽の具体的内容に関わるものと考える。

現在は「道(手法・手段)」をポストモダン的にガラポンして組み合わせた表現は音楽に限らず非常に多いような気がする。なんでもかんでも組み合わせれば良い、という発想だ。

しかしながら、僕は社会状況や自己が「どう(HOW)」作品に関係あるのか、という部分を抜きにして創作をすることができない体(?)になってしまった。それは横浜ボートシアターのおかげでもあるし、自分自身がもともと創作を自己満足的かつ切実な営為と位置付けていたからでもある。

しかしいかに切実であろうとも、自己満足なだけの創作物は発表する意味がない。発表するからには、それが社会や自己とどう繋がっているのか、別に内容が社会的であれということではなく、社会に投げ込んだときにどんな新鮮さを持ちうるか、ということを少なからず意識しなければならない。

創作というのはそういう意味でとてもしんどいが、ロベルト・バッジョも二つ道があればより困難な方を選べと言っていたし、確かお釈迦様も似たようなことを言っていた。偉人たちの背中を追って日々精進するのみである。

「”新しい”音楽」という言葉の意味

音楽に関わる人間として、今後どんなことをやっていけばいいのか。 忘れた頃に何度も思い出したように浮上してくる問題だ(いやいや、いつも気にしてますよ!?)。

自分の限られた視野に基づいた考えなので与太話程度に読んでもらいたい面もあるが、今の自分の基本的な前提としては、音楽の新しさに関する可能性はほぼ残っていない。音楽という可能性の枠はすでに開拓され尽くされ、その中で細かな技や完成度を競っているのが今の「新しい」音楽なのだ。 音楽において、もう発想的に新しいものを作る可能性がないとすれば、今を生きる作曲家は何を作れば良いのか。

随分悲観的な言い方だな、と自分でも思うが、ふと「新しさ」という言葉を無批判に使っていることに気づいた。 「新しさ」というのはその一言では言い尽くせない色んな意味合いがあって、特に創作を志すものにとっては生きがいに直結するような概念だ。

しかし結局経験の蓄積・それに応じた感覚の変化が「新しさ」という言葉の実質的な意味をいつの間にか変えてしまった。にも関わらず、自分は昔と同じような「新しさ」の質を求めているから苦しいのではないか。

自分が固執する「新しさ」は、過去の自分が何かを新鮮に感じていた経験に根ざす。 自分にとって新しかった、斬新だったと思われるもの、それを見聞きした経験はとても眩しい。 しかしそういう「新しかった」とされるものをよく観察すると、その新しさの源泉は既存のものの組み合わせであったりする。 それに気づいてしまった現在では、かつて味わったあの感覚の再来は望むべくもない。

では今自分が「新しさ」を定義するとすればそれは何か。残念ながらその問いに対する答えは持ち合わせていない。のみならず、今はそれより優先しなければならないことが一つある。

それは、「新しさ」がフーリエ変換のごとく一瞬で組み合わせへと還元されるとしても重要なことだ。その時その場で自分が心の新鮮さを保っていられるかどうか。表現を創り上げる過程で感じる「新鮮さ」は創作を続ける上での生命線である。

例えばクラシックの業界では「古楽」が流行ったと聞く(現在進行形なのだろうか?)。それは現代音楽において「新しい」ものが出尽くしたがゆえのある種の「回帰」であることは間違いないが、「古楽」を復元するということは創作者にとってとても刺激的なことでもあるのだと思う。実際、聴いていると面白い曲もかなりある。クラウディオ・モンテヴェルディの曲の中にはポップスかと思うような4コードの循環進行一発の曲があったりする。

当然4コードの循環進行を今自分がやっても何の「新しさ」もないが、「古楽」という「文脈」の中でそれを扱う時(鑑賞する時)、とても「新鮮で面白いもの」に変わり得るのだ。しかも、それが自分以外の人間と共有できる「文脈」であれば、それは一定人数の間(社会)において意味を持つ。

というわけで、「文脈の中での新鮮さ」を追求するのが当面の課題であるのだが、そこで再び難題が立ちはだかる。どんな「文脈」を前提に置くかということだ。実はどんな「文脈」を選ぶかということは死活問題になる程重要なのだが、一番考えるのが大変なので自分も含め多くの人が失敗し続けている(もしくは代わり映えのしないものばっかり)、と自分では思っている。

あんまり長く書いてられないので、今日はこれくらいにしておこう。このテーマの続きは、気が乗ったら書きます。

マイクロチューニング

最近少しずつマイクロチューニング(非平均律)の研究をしている。
とある仕事で平均律から外れた音律をやってくれと頼まれたことが一番大きなきっかけ。マイクロチューニングは(おそらく一般的には)平均律以外の音律を指す(純正律なんかもマイクロチューニングと言えばそうなのかもしれないけど、そうだとしても割と別格の位置だろう)。
KORGのMonologue2016年にAphex TwinがKORGのMonologueの開発に参加してマイクロチューニング機能を実装させたりしていることを今更知った)を買おうか迷ったがまずは自分の環境でできることをやってみようと思い、その筋のデファクトスタンダードであるScalaというアプリの実行環境を整える。
煩雑なインストール作業を乗り切り見事アプリは起動するが、肝心の音のチェックがどうしてもできない。内蔵音源(?)から音が出ないし、MIDIのIACバスもソフトから認識されていない。
検索すると同様な感じでうまくいってない人がいたが、そこのコメントでソフトの割と深い部分で不具合を起こしているらしいことがわかり諦めた。
Logic ProではScalaで使用できる音律設定ファイルを読み込むことができるので、アプリのパッケージの中にあるTuning Tableフォルダにいくつか設定ファイルを放り込む。
流石に過不足なく動くが、平均律からプラマイ100セントまでしか動かせないという厳格な(?)制限があり、読み込んでも意味のない音律が結構多い。
また、Logicの場合、プロジェクト設定から全体の音律を変えてしまうので、複数の音律を使いたい場合結構面倒(一つの音律で作業してバウンスして、音律をまた変えて作業する、といったことを繰り返す羽目になる)。
Ableton LiveだとMax for LiveデバイスにRetune for Liveという素晴らしいMIDIデバイスが出ており、こちらだと簡単にトラックごとに別の音律を扱うことができそう。
試してみるとポリフォニックに発音させる際に音程がヨレているようだが、使えないことはない。しばらくこれで実験することにする。
色々調べているとマイクロチューニングをやる目的を列挙しているサイトがあった。
新しい音を見つけるため、民族音楽をシミュレートするため、古楽を演奏するためetc….
自分で色々実験し、「これはいけるかな」と思ったやり方を客観的に眺めると、いかに自分が保守的な耳をしているかがよくわかる。
特に音律を判断する際、どうしても平均律を基準にしてしまうので、平均律からせっかく自由になったはずなのに実は一歩も外へ動けてないんじゃないかなんて考えてしまう。
かといって平均律を頭から追い出そうとすると、リズムと音色に偏ったフレージングになる。
当たり前のことではあるが、結局自分が経験したことを元に良し悪しを判断しているので、それ以上のことはなかなか出てこない。
マイクロチューニングという広大な世界を前にして自分の枠組みから出たいと思ってはいるけど、果たしてそんなことできるのだろうか。
まあ、その不可能性を自分なりに確信するのも一つの経験ではある。

ちなみに今はScalaの公式サイトから落とせる膨大な量の音律リストを少しずつ試している。
普通にやってたら10年仕事になってしまうので、ある程度傾向を掴んだら自分なりのやり方を考える方にシフトしていきたい。
今の所、平均律からのヴァリエーションとして作られたであろうものが結構多い。


大晦日から散歩をするようになった。海をぼーっと眺めたり、鳥の声を聞いたりすると、とても良い影響が自分にあるようだ。波を見つつも一点を凝視する練習をしている。昨年の晩秋くらいからSNSへの個人的な投稿をやめた。再び復帰するかどうかは不明。

良い音とオカルト

「良い音」について語られるとき、そこには語られることが少ない前提が、少なくとも二つある。

1 主観的定義 良い音=心地よい音(好きな音)
2 客観的定義? 良い音=原音に忠実

客観的定義に「?」をつけたのは、原音に忠実という判断がいかにして十分に保証できるかという点がよくわからないからだ。

例えばCDとレコードのブラインドテスト、というのを考えるときにも悩ましい問題がある。まず、CDとレコードを厳密に同じ条件で再生するということは、ほぼ不可能ではなかろうか。再生音源、アンプ、スピーカー、ケーブル、電源を同じ条件にしたとしても、CDはCDプレイヤー、レコードはレコードプレイヤーで再生しなければいけない。再生装置が本質的に違うという時点で、「CD」と「レコード」という二つの媒体を純粋に比較することは困難になる。

そういう厳密な話はさて置くとして、良い音というのは文脈的に主観性と客観性を同時に含んだものになりやすい。そういう話の最たるものが、CDとレコードの音質比較というものである。音質比較という一見客観的な言葉ではあるが、これは結局のところ「どちらが良い音か」という問題を扱っているに等しい。そして、この話題は大抵レコードが良いと思っている人がレコードの「音質の良さ」を主張するというオチがついている。

しかし、CD(レコード採取音源)とレコードをランダムに流すようなブラインドテストをやったとしたら、僕の予想では、全部を正確に言い当てられる人間はいない。見た目と気分で音を判断している人がほとんどだと思う。普通に考えて、可聴域を十分すぎるくらいにカバーしたCDと、レコードをブラインドで区別することは、困難だろう(余談だが、2017年現在となっては、CDとレコードなんていう二分法自体が古臭い。ハイレゾ録音・DSD録音とレコードの比較をする方がナウいはず……)。

ところで、CDとレコードをブラインドで言い当てるのが困難だろうと予想するのは、スペックだけを参考にして言っているのではない。自分が音楽を作っている時の経験も加味して言っている。というのは、自分でミックスをやっているとき、操作対象ではないトラックのEQをいじって、音をカットしたりブーストさせる動作をしていると、あたかも操作対象のトラックの音が変わったように聴こえてしまう、という経験を何度もしているのだ(これからもするだろう)。効かないツマミを操作して音を変えた気分になると、一切音は変わっていないのにも関わらず、本当に音が変わったように聴こえてしまう、というこの錯覚は、おそらくオーディオマニアの様々なこだわりに対しても適用できる。

ミキシングについて本気で知識を得ようとしていた時期、ミキシングやマスタリング、特にマスタリングにおいて色々事細かなトリックを使うエンジニアが、サンレコなどで手の内をちょっとだけ明かしたりする記事を以前よく読んでいた。しかし、そういう記事を読んでもあまり信用できないというか、実際に聴いていないんだから「ふ〜んそうか〜」と思うしかないな、と割り切り、いつしかスルーするようになった。今ではその手の記事や本は全く読まない(たまに読むとためになる部分もあるだろう、と今でも思うものの)。

基本的なEQ処理やコンプ処理はともかくとして、効果の怪しいトリックについては眉唾だなあ、と思っていた昨今だが、ふと先ほど思い直した。基本を押さえた上で、そういった実際的効果が怪しいレベルまで気を配るということ自体には作品価値を高めることに貢献する可能性がある。神経を人間には理解不能な領域まで尖らせることによって、ようやく基本的処理が十分にこなせるレベルにまで感覚が研ぎ澄まされるのだ。エンジニアも人間であり、五官のうち、主に聴覚を最大限に研ぎ澄ませる必要がある。そういった身体性が必要なのは、ミュージシャンとなんら変わりがない。

効果の怪しいトリックをオカルト的と言っていいのであれば、ミュージシャンに限らず、表現者というのは往々にしてオカルト的方向に突っ走りがちである。それは一見非合理だが、理解・識別不能な領域を目指して神経を研ぎ澄ませること自体に意味がある。研ぎ澄まされるために使われるタームがたまたまオカルトになりやすい、ということなのだと思う。

そういった表現者やエンジニアのオカルト的な言葉遣いは文化人類学的な研究課題になるかもしれない。オカルティックな表現や技術を通して、本当はどんな課題が解決されているのかを理解することは、技術の進歩を考える上でも有用だと思う。

(2017/09/28/23:53 論旨を整えるために追記)

夏、良心が試される季節

横浜ボートシアターはこの夏、船の大掃除をしており、衣装の虫干し、備品の整理などを行なっている。船劇場をドックに入れて検査するということもあり、以前行った大掃除よりもさらに抜本的な整理が予定されている。その過程で、僕たちは蚊やダニなどの「害虫」と接触する。

蚊、ダニ、時々ゴキブリという塩梅で船にはおそらく少なくない数の虫が生息しているが、一般的に人はそういった害虫を見つけると平気で殺す。僕自身は目に見えるほど大きい蚊やゴキブリを殺すのには非常に抵抗があるが、ほとんど見えないほど小さいダニをバルサンで殺すことには何とも思わない。実に身勝手な線引きである。これは一部のベジタリアンが、肉を食べるのには良心が痛む一方で、葉っぱを食べることを何とも思わないのと一緒だ。

生き物の種類によって殺すときに良心が痛んだり痛まなかったりするということは、端的に言えば欺瞞である。これを、良心の限界が持つ問題だと思った時期もあるが、最近は単に生理的な好悪を良心という言葉で言い換えていることからくる矛盾に過ぎないのかもしれない、と思っている。

というのも、もし良心が実在するとすれば、その持ち主は分け隔てない誠実で公平な判断を下すであろうと考えられるからだ。自己都合で生殺与奪の軸がブレてしまうような判断の源泉を、僕は良心と見做すことができない。

生理的な好悪からブレのある判断をしているのにもかかわらず、それを良心の発露と誤解し、盤石の基礎を持つ正義であるという風に誤って認識すると、問題がこじれる。一部のベジタリアンが肉を食べる人たちに悪罵の混じった正義の鉄槌を下している光景が、TwitterやWEBでたまに見られる。蚊やゴキブリを叩き殺す人を見ると、僕はそれと同じ愚を犯しそうになる。

これは仮説だが、人間というものは、生理的な判断と良心からくる判断をしばしば区別し損なう。だからこそ、良心的な判断に少しでも近づきたければ、生理的直感を留保して、それなりの反省的・理性的思考が必要だと思われる。夏は暑いこともあり、思考するには不得手な季節かもしれない。戦時中も飢えが一般人から思考能力を奪ったという。自己都合でブレることのない、誠実で粘り強い思考を保つには何をするべきか、厳しい酷暑にこそ気をつけて考えておきたい。

日本の近現代史

少なくとも僕の世代においては、大学受験で日本史を選択した場合、学校授業での近現代史はものすごく駆け足になる。大学入試でも、どちらかというと江戸時代までが主な出題内容であった。自らの不勉強のせいが一番大きいのだが、そんな背景も手伝い近現代の知識は現状、壊滅状態だ。

横浜ボートシアターの『アメリカ』という作品に関わらせていただいているおかげで、今、近現代史をたっぷりと学び直している。もっとも、僕の目的は政治経済史を中心とした「通史」をおさらいすることがメインではなく、思想史・精神史並びに社会的変化がいかに文学等の表現に影響を与えたか、という視点からみる文学史(+芸術表現の歴史)にある。特に一番興味があるのは精神史と文学史で、両者の追求を通して過去の日本人がどんな居様をしていたかに、少しでも近づきたい。こういう目的で学び始めると、結局、江戸時代の国学、神道、仏教、民俗学まで射程に入ってくる気配がするのだが、『アメリカ』本公演までに果たしてどれだけの成果を得られるだろうか。丁寧に勉強した方が回り回って音楽にも良い影響が出るという確信はあるので、焦らずにじっくり取り組んでいきたい。

先週より、10月に公演予定の『賢治讃劇場』の演目の一つ『シグナルとシグナレス』の稽古が始まった。しばらくの間、舞台だけでも『日本間で聴く一葉』『アメリカ』と同時進行なので相当ハードなように感じるが、まあ、しっかり休めばなんとかなるのではないだろうか。まずは『日本間で聴く一葉』の二作品『十三夜』と『大つごもり』をしっかり仕上げていきたい。毎回、稽古は本当に楽しくやらせていただいている。

今週は毎年恒例の桜陽高校の授業に顔を出す。どういう感じでやろうか、考え中!