「”新しい”音楽」という言葉の意味

音楽に関わる人間として、今後どんなことをやっていけばいいのか。 忘れた頃に何度も思い出したように浮上してくる問題だ(いやいや、いつも気にしてますよ!?)。

自分の限られた視野に基づいた考えなので与太話程度に読んでもらいたい面もあるが、今の自分の基本的な前提としては、音楽の新しさに関する可能性はほぼ残っていない。音楽という可能性の枠はすでに開拓され尽くされ、その中で細かな技や完成度を競っているのが今の「新しい」音楽なのだ。 音楽において、もう発想的に新しいものを作る可能性がないとすれば、今を生きる作曲家は何を作れば良いのか。

随分悲観的な言い方だな、と自分でも思うが、ふと「新しさ」という言葉を無批判に使っていることに気づいた。 「新しさ」というのはその一言では言い尽くせない色んな意味合いがあって、特に創作を志すものにとっては生きがいに直結するような概念だ。

しかし結局経験の蓄積・それに応じた感覚の変化が「新しさ」という言葉の実質的な意味をいつの間にか変えてしまった。にも関わらず、自分は昔と同じような「新しさ」の質を求めているから苦しいのではないか。

自分が固執する「新しさ」は、過去の自分が何かを新鮮に感じていた経験に根ざす。 自分にとって新しかった、斬新だったと思われるもの、それを見聞きした経験はとても眩しい。 しかしそういう「新しかった」とされるものをよく観察すると、その新しさの源泉は既存のものの組み合わせであったりする。 それに気づいてしまった現在では、かつて味わったあの感覚の再来は望むべくもない。

では今自分が「新しさ」を定義するとすればそれは何か。残念ながらその問いに対する答えは持ち合わせていない。のみならず、今はそれより優先しなければならないことが一つある。

それは、「新しさ」がフーリエ変換のごとく一瞬で組み合わせへと還元されるとしても重要なことだ。その時その場で自分が心の新鮮さを保っていられるかどうか。表現を創り上げる過程で感じる「新鮮さ」は創作を続ける上での生命線である。

例えばクラシックの業界では「古楽」が流行ったと聞く(現在進行形なのだろうか?)。それは現代音楽において「新しい」ものが出尽くしたがゆえのある種の「回帰」であることは間違いないが、「古楽」を復元するということは創作者にとってとても刺激的なことでもあるのだと思う。実際、聴いていると面白い曲もかなりある。クラウディオ・モンテヴェルディの曲の中にはポップスかと思うような4コードの循環進行一発の曲があったりする。

当然4コードの循環進行を今自分がやっても何の「新しさ」もないが、「古楽」という「文脈」の中でそれを扱う時(鑑賞する時)、とても「新鮮で面白いもの」に変わり得るのだ。しかも、それが自分以外の人間と共有できる「文脈」であれば、それは一定人数の間(社会)において意味を持つ。

というわけで、「文脈の中での新鮮さ」を追求するのが当面の課題であるのだが、そこで再び難題が立ちはだかる。どんな「文脈」を前提に置くかということだ。実はどんな「文脈」を選ぶかということは死活問題になる程重要なのだが、一番考えるのが大変なので自分も含め多くの人が失敗し続けている(もしくは代わり映えのしないものばっかり)、と自分では思っている。

あんまり長く書いてられないので、今日はこれくらいにしておこう。このテーマの続きは、気が乗ったら書きます。

畑違いの役者というポジションで責任を負った結果、得た教訓

3月10日(日)、17日(日)に横浜ボートシアターの公演で音楽をつけます。詳細はこちら。現在年度末的な作業他をやりながら仕込み中。


僭越というか場違いというか、2年ほど前に一度だけ役者として舞台に立たせていただいたことがある。作品はとても素晴らしかったものの、個人的にはボロボロでどうしようもなかった。しかし、取り組んだ期間において色々と得るものがあった。以下は当時のメモに手を入れたもの。


役者はとにかく人並み以上に体を大事にしないといけない。例えば風邪を引いてもとりあえず演奏はできるが、役者は声を使うので風邪を引いたら相当ヤバい。

役者としての期間を過ごしたことで得た一番のものは、体の状態に敏感になるということ。 自分の体がまずい方向に行っているな、ということに以前よりも早く気づけるようになったので、少しずつではあるが、体の問題、声の問題に改善が見られるように思う。

体と声は表裏一体で、体の状態が違えばかなり声の出方がかなり違うということが実感としてわかってきた。また、声をよく通るように出すときの体の支えが、身体のみならず、精神にとっても落ち着きをもたらすことがわかってきた。良い声を出そうとすれば必然的に良い体へと近づくのではないか。

それから、体の変化に敏感になったおかげで、眠気に対する力技ではない対処ができるようになった。自分の場合、目の乾き、目の筋肉等も含めた身体のどこかの緊張と凝りなどが眠さの原因であることが多い。

このように体に対する気づきを与えてくれた劇団に感謝している。


畑違いのことで重大な責任を背負うことというのはあまりないことだが、機会があれば受けてみるべきなのかもしれない。自分の普段のポジションにはない新たな気づきが得られるからだ。

マイクロチューニング

最近少しずつマイクロチューニング(非平均律)の研究をしている。
とある仕事で平均律から外れた音律をやってくれと頼まれたことが一番大きなきっかけ。マイクロチューニングは(おそらく一般的には)平均律以外の音律を指す(純正律なんかもマイクロチューニングと言えばそうなのかもしれないけど、そうだとしても割と別格の位置だろう)。
KORGのMonologue2016年にAphex TwinがKORGのMonologueの開発に参加してマイクロチューニング機能を実装させたりしていることを今更知った)を買おうか迷ったがまずは自分の環境でできることをやってみようと思い、その筋のデファクトスタンダードであるScalaというアプリの実行環境を整える。
煩雑なインストール作業を乗り切り見事アプリは起動するが、肝心の音のチェックがどうしてもできない。内蔵音源(?)から音が出ないし、MIDIのIACバスもソフトから認識されていない。
検索すると同様な感じでうまくいってない人がいたが、そこのコメントでソフトの割と深い部分で不具合を起こしているらしいことがわかり諦めた。
Logic ProではScalaで使用できる音律設定ファイルを読み込むことができるので、アプリのパッケージの中にあるTuning Tableフォルダにいくつか設定ファイルを放り込む。
流石に過不足なく動くが、平均律からプラマイ100セントまでしか動かせないという厳格な(?)制限があり、読み込んでも意味のない音律が結構多い。
また、Logicの場合、プロジェクト設定から全体の音律を変えてしまうので、複数の音律を使いたい場合結構面倒(一つの音律で作業してバウンスして、音律をまた変えて作業する、といったことを繰り返す羽目になる)。
Ableton LiveだとMax for LiveデバイスにRetune for Liveという素晴らしいMIDIデバイスが出ており、こちらだと簡単にトラックごとに別の音律を扱うことができそう。
試してみるとポリフォニックに発音させる際に音程がヨレているようだが、使えないことはない。しばらくこれで実験することにする。
色々調べているとマイクロチューニングをやる目的を列挙しているサイトがあった。
新しい音を見つけるため、民族音楽をシミュレートするため、古楽を演奏するためetc….
自分で色々実験し、「これはいけるかな」と思ったやり方を客観的に眺めると、いかに自分が保守的な耳をしているかがよくわかる。
特に音律を判断する際、どうしても平均律を基準にしてしまうので、平均律からせっかく自由になったはずなのに実は一歩も外へ動けてないんじゃないかなんて考えてしまう。
かといって平均律を頭から追い出そうとすると、リズムと音色に偏ったフレージングになる。
当たり前のことではあるが、結局自分が経験したことを元に良し悪しを判断しているので、それ以上のことはなかなか出てこない。
マイクロチューニングという広大な世界を前にして自分の枠組みから出たいと思ってはいるけど、果たしてそんなことできるのだろうか。
まあ、その不可能性を自分なりに確信するのも一つの経験ではある。

ちなみに今はScalaの公式サイトから落とせる膨大な量の音律リストを少しずつ試している。
普通にやってたら10年仕事になってしまうので、ある程度傾向を掴んだら自分なりのやり方を考える方にシフトしていきたい。
今の所、平均律からのヴァリエーションとして作られたであろうものが結構多い。


大晦日から散歩をするようになった。海をぼーっと眺めたり、鳥の声を聞いたりすると、とても良い影響が自分にあるようだ。波を見つつも一点を凝視する練習をしている。昨年の晩秋くらいからSNSへの個人的な投稿をやめた。再び復帰するかどうかは不明。

「うつせみ」音作りメモ

最初はSEをたくさん使おうかと思ったが、環境音などをそのまま使ってもあんまり面白くないと感じたので、再び本をちゃんと読むまではその作業はペンディング。

この作品でギターを使うかどうかまだわからない。とりあえずAbletonでInstrument RackとAudio Rackをたくさん作る。
本当に芝居にとって効果的なものになっているかどうかはまだわからない。
ただ、おそらく必要とされるであろう質の音を目分量で作る。
まだその作業は道半ば。どれくらいのものが必要かもまだ不明。

このアプローチだとプリセットという財産が目に見える形で増えていくので、結構ガンガン作ってしまう。勢いでガーッとできるとそれはそれで良いのだが、再利用しやすい形でプリセットを保存するのが大事だ。
個人的な好みだと、なるべく単機能のモジュールとして保存して、ラックを入れ子に組み合わせて使用できるようにしていくのが使いやすい。
とりあえずAudio Rackのフォルダを見れば良いというのも単純で良い。
ただし、このやり方だとたくさん使った時にひょっとしたらCPUが悲鳴をあげるかもしれない。
今のところ大丈夫だけど……(芝居でない)曲作りの時は気をつけないといけないかも。
まあ、そういう懸念はあるにせよ、僕は今までDAWでノウハウを積み上げるのをある種サボっていた。
最近ようやく、少なくともAbletonの方では積み上げる方策ができてきた。
Logicで同じことができるかなあ、というかやる必要があるかなあ。
他日、また検討してみたい。

「うつせみ」を前回やった時は最初ものすごく苦労した。
今回は果たしてどうでしょう。
成長の跡を見せられるといいのですが。

『賢治讃劇場』本番間近/主に音楽について

ここ数日間は怒涛の稽古ラッシュでした。もちろん10月11日から本番を迎える横浜ボートシアター『賢治讃劇場』の稽古です。稽古場にいる最中はあまり疲れの自覚がなかったのですが、家に帰ると即寝。体は正直です。「役者は寝るのも仕事」という又聞きの格言もありますし、舞台上で役を演じるのは初めてやっていることもあるので、生活上の瑕疵はどうかご寛恕いただきたい(誰に?)。役者としてはせめて足を引っ張らないように本番を乗り切ることだけが目標……などとネガティブなことを言いつつ、作品自体はいつも通り、本当に面白いです!ぜひ今からでもご予約を!

音楽としては、今までのやり方を踏襲している部分に加え、これまでとは若干違ったアプローチを大きく導入しています。今までと同じなのは、生演奏の部分。パーカッションであったり、ギターであったり。今までと違う部分というのは、打ち込みのポン出しと、キーボードやサンプラーによる演奏です。元々僕は人前で演奏をするつもりはあまりない心算でボートシアターに参加し出したので、これは僕にとっては原点に戻った感じですが、僕がボートシアターで音をつけるアプローチとしては新しい感じです。

今回なぜそういうアプローチをすることになったかというと、かなり複合的な要因があるように思います。しかし、作品のテイストに助けられた部分が一番大きいかもしれません。

打ち込みやキーボード、サンプラーを使った音楽は『シグナルとシグナレス』で多用していますが、この作品は信号機や電信柱といった無機的、人工的なキャラクターのみが登場する芝居です。電波、電気、ランプの明滅といったイメージと打ち込み的な感覚が非常に良く合うように感じます。とは言っても、単に無機的な音楽ではなく、90年代以降?の有機的なエレクトロニカの雰囲気が随所にあったりするので、そういうのが好きな人には気に入っていただけるかもしれません(いや、この程度で偉そうにエレクトロニカとか言ってるんじゃない、って怒られちゃうかな?)。

また、『フランドン農学校の豚』は「漫画的(©️遠藤啄郎?)」と言えるほど展開の早い作品です。音楽としてはそのスピード感を出すために、表現の振り幅を大きくする必要もあり、こちらでも打ち込みを一部使用しております。しかし、どちらかと言えば、『フランドン〜』の方が今までっぽい、生演奏を多用したテイストになってます(一方で、一つの芝居として見れば、『フランドン〜』はボートシアターにしては異例なほどテンポの早い作品になっているのでは!)。

元々は打ち込みというものを主な表現手段にしていた僕が、今までボートシアターでなかなか打ち込みに手を出さなかったのは、劇団のカラーや、演出の要求にどう応えるか、という問題に関して、打ち込みでは不安が残る、と思っていたためです(この問題を言い始めると長くなりそうなので、また他日に譲ります)。

しかし、今回役を仰せつかったために音楽演奏の負担を少し減らさないとまずいぞ、という問題もあり、打ち込みとボートシアターという問題に対して真剣に考えざるを得ませんでした。その試行錯誤の成果が、特に『シグナルとシグナレス』に現れています。それを是とするか非とするか、「是非」劇場にて確かめてください!

良い音とオカルト

「良い音」について語られるとき、そこには語られることが少ない前提が、少なくとも二つある。

1 主観的定義 良い音=心地よい音(好きな音)
2 客観的定義? 良い音=原音に忠実

客観的定義に「?」をつけたのは、原音に忠実という判断がいかにして十分に保証できるかという点がよくわからないからだ。

例えばCDとレコードのブラインドテスト、というのを考えるときにも悩ましい問題がある。まず、CDとレコードを厳密に同じ条件で再生するということは、ほぼ不可能ではなかろうか。再生音源、アンプ、スピーカー、ケーブル、電源を同じ条件にしたとしても、CDはCDプレイヤー、レコードはレコードプレイヤーで再生しなければいけない。再生装置が本質的に違うという時点で、「CD」と「レコード」という二つの媒体を純粋に比較することは困難になる。

そういう厳密な話はさて置くとして、良い音というのは文脈的に主観性と客観性を同時に含んだものになりやすい。そういう話の最たるものが、CDとレコードの音質比較というものである。音質比較という一見客観的な言葉ではあるが、これは結局のところ「どちらが良い音か」という問題を扱っているに等しい。そして、この話題は大抵レコードが良いと思っている人がレコードの「音質の良さ」を主張するというオチがついている。

しかし、CD(レコード採取音源)とレコードをランダムに流すようなブラインドテストをやったとしたら、僕の予想では、全部を正確に言い当てられる人間はいない。見た目と気分で音を判断している人がほとんどだと思う。普通に考えて、可聴域を十分すぎるくらいにカバーしたCDと、レコードをブラインドで区別することは、困難だろう(余談だが、2017年現在となっては、CDとレコードなんていう二分法自体が古臭い。ハイレゾ録音・DSD録音とレコードの比較をする方がナウいはず……)。

ところで、CDとレコードをブラインドで言い当てるのが困難だろうと予想するのは、スペックだけを参考にして言っているのではない。自分が音楽を作っている時の経験も加味して言っている。というのは、自分でミックスをやっているとき、操作対象ではないトラックのEQをいじって、音をカットしたりブーストさせる動作をしていると、あたかも操作対象のトラックの音が変わったように聴こえてしまう、という経験を何度もしているのだ(これからもするだろう)。効かないツマミを操作して音を変えた気分になると、一切音は変わっていないのにも関わらず、本当に音が変わったように聴こえてしまう、というこの錯覚は、おそらくオーディオマニアの様々なこだわりに対しても適用できる。

ミキシングについて本気で知識を得ようとしていた時期、ミキシングやマスタリング、特にマスタリングにおいて色々事細かなトリックを使うエンジニアが、サンレコなどで手の内をちょっとだけ明かしたりする記事を以前よく読んでいた。しかし、そういう記事を読んでもあまり信用できないというか、実際に聴いていないんだから「ふ〜んそうか〜」と思うしかないな、と割り切り、いつしかスルーするようになった。今ではその手の記事や本は全く読まない(たまに読むとためになる部分もあるだろう、と今でも思うものの)。

基本的なEQ処理やコンプ処理はともかくとして、効果の怪しいトリックについては眉唾だなあ、と思っていた昨今だが、ふと先ほど思い直した。基本を押さえた上で、そういった実際的効果が怪しいレベルまで気を配るということ自体には作品価値を高めることに貢献する可能性がある。神経を人間には理解不能な領域まで尖らせることによって、ようやく基本的処理が十分にこなせるレベルにまで感覚が研ぎ澄まされるのだ。エンジニアも人間であり、五官のうち、主に聴覚を最大限に研ぎ澄ませる必要がある。そういった身体性が必要なのは、ミュージシャンとなんら変わりがない。

効果の怪しいトリックをオカルト的と言っていいのであれば、ミュージシャンに限らず、表現者というのは往々にしてオカルト的方向に突っ走りがちである。それは一見非合理だが、理解・識別不能な領域を目指して神経を研ぎ澄ませること自体に意味がある。研ぎ澄まされるために使われるタームがたまたまオカルトになりやすい、ということなのだと思う。

そういった表現者やエンジニアのオカルト的な言葉遣いは文化人類学的な研究課題になるかもしれない。オカルティックな表現や技術を通して、本当はどんな課題が解決されているのかを理解することは、技術の進歩を考える上でも有用だと思う。

(2017/09/28/23:53 論旨を整えるために追記)

『にごりえ』ツアー終了

『にごりえ』のツアーが無事に終了しました。来場されたお客様、受け入れ先のみなさま、関係者のみなさま、どうもありがとうございました。またお会いできたら嬉しいです。

次は『賢治讃劇場』……明日から早速稽古再開します。これから本番に向けて陰に陽に色々と準備をせねばなりません。気を引き締めて頑張ろうと思います。

夏、良心が試される季節

横浜ボートシアターはこの夏、船の大掃除をしており、衣装の虫干し、備品の整理などを行なっている。船劇場をドックに入れて検査するということもあり、以前行った大掃除よりもさらに抜本的な整理が予定されている。その過程で、僕たちは蚊やダニなどの「害虫」と接触する。

蚊、ダニ、時々ゴキブリという塩梅で船にはおそらく少なくない数の虫が生息しているが、一般的に人はそういった害虫を見つけると平気で殺す。僕自身は目に見えるほど大きい蚊やゴキブリを殺すのには非常に抵抗があるが、ほとんど見えないほど小さいダニをバルサンで殺すことには何とも思わない。実に身勝手な線引きである。これは一部のベジタリアンが、肉を食べるのには良心が痛む一方で、葉っぱを食べることを何とも思わないのと一緒だ。

生き物の種類によって殺すときに良心が痛んだり痛まなかったりするということは、端的に言えば欺瞞である。これを、良心の限界が持つ問題だと思った時期もあるが、最近は単に生理的な好悪を良心という言葉で言い換えていることからくる矛盾に過ぎないのかもしれない、と思っている。

というのも、もし良心が実在するとすれば、その持ち主は分け隔てない誠実で公平な判断を下すであろうと考えられるからだ。自己都合で生殺与奪の軸がブレてしまうような判断の源泉を、僕は良心と見做すことができない。

生理的な好悪からブレのある判断をしているのにもかかわらず、それを良心の発露と誤解し、盤石の基礎を持つ正義であるという風に誤って認識すると、問題がこじれる。一部のベジタリアンが肉を食べる人たちに悪罵の混じった正義の鉄槌を下している光景が、TwitterやWEBでたまに見られる。蚊やゴキブリを叩き殺す人を見ると、僕はそれと同じ愚を犯しそうになる。

これは仮説だが、人間というものは、生理的な判断と良心からくる判断をしばしば区別し損なう。だからこそ、良心的な判断に少しでも近づきたければ、生理的直感を留保して、それなりの反省的・理性的思考が必要だと思われる。夏は暑いこともあり、思考するには不得手な季節かもしれない。戦時中も飢えが一般人から思考能力を奪ったという。自己都合でブレることのない、誠実で粘り強い思考を保つには何をするべきか、厳しい酷暑にこそ気をつけて考えておきたい。

日本の近現代史

少なくとも僕の世代においては、大学受験で日本史を選択した場合、学校授業での近現代史はものすごく駆け足になる。大学入試でも、どちらかというと江戸時代までが主な出題内容であった。自らの不勉強のせいが一番大きいのだが、そんな背景も手伝い近現代の知識は現状、壊滅状態だ。

横浜ボートシアターの『アメリカ』という作品に関わらせていただいているおかげで、今、近現代史をたっぷりと学び直している。もっとも、僕の目的は政治経済史を中心とした「通史」をおさらいすることがメインではなく、思想史・精神史並びに社会的変化がいかに文学等の表現に影響を与えたか、という視点からみる文学史(+芸術表現の歴史)にある。特に一番興味があるのは精神史と文学史で、両者の追求を通して過去の日本人がどんな居様をしていたかに、少しでも近づきたい。こういう目的で学び始めると、結局、江戸時代の国学、神道、仏教、民俗学まで射程に入ってくる気配がするのだが、『アメリカ』本公演までに果たしてどれだけの成果を得られるだろうか。丁寧に勉強した方が回り回って音楽にも良い影響が出るという確信はあるので、焦らずにじっくり取り組んでいきたい。

先週より、10月に公演予定の『賢治讃劇場』の演目の一つ『シグナルとシグナレス』の稽古が始まった。しばらくの間、舞台だけでも『日本間で聴く一葉』『アメリカ』と同時進行なので相当ハードなように感じるが、まあ、しっかり休めばなんとかなるのではないだろうか。まずは『日本間で聴く一葉』の二作品『十三夜』と『大つごもり』をしっかり仕上げていきたい。毎回、稽古は本当に楽しくやらせていただいている。

今週は毎年恒例の桜陽高校の授業に顔を出す。どういう感じでやろうか、考え中!

本と公演

今年に入って本を読む量が格段に増えた。横浜ボートシアターの新作に向けて、理解したい問題があるためだ。しかし、参考書籍を多く読むうちに、これは現代に生きる日本人の問題としても捉えられることなのだと思うようになった。好むと好まざると、日本に生まれた人間として、どのように日本を捉えるかという問題を、より深い次元から理解できるようになりたい。そういった思いが、今は音楽を作る衝動よりも強くなってしまった。最終的には音楽の創作へと繋げるのではあるが、急がば回れ、というか、この追究を通らないで道を急いだら何にもならないぞ、という思いで、今は色々と勉強している。

この勉強の行き着く先はどこなのか、たまにわからなくなることがあるが、大まかには「来年の芝居のため」「自分自身の表現のため」「遠藤さんが創作者として背負ってきた歴史性を理解するため」の三点である。これらはどれも互いに重なり合うもので、強いてその重なり合う部分を言葉にするとすれば、「松本利洋という一個人に生まれた以上背負わざるを得ない宿命を知るため」とでも言えるのかもしれない。言葉にしてみるとはっきりするが、これはどう考えても一年やそこら本を読んだだけで解決できるものではなく、一生をかけて追っていく問題だ。十年くらい前から、漠然と音楽はライフワークだと感じてきていたが、今年はその意味を改めて問い直すような段階に来ているのかもしれない。

今のところ、この乱読で得た大きな成果の一つは、身の回りの人も含めて僕から見て素晴らしいと思える人々が、ここ百年以内にもたくさんいるということがありありと実感できるようになった、という点である。

そんな風に実感される人物の一人、横浜ボートシアター代表・演出の遠藤啄郎さんと創作に取り組めているということは、自分にとって非常にありがたいことである。遠藤さんの感性・才能に触れられるのはもちろんのこと、昭和三年生まれの方と仕事ができるというのは、おそらく僕と同世代の人たちの中では、そうそうあることではない。そして、横浜ボートシアターの芝居を観にいらっしゃる観客の皆さんとしても、米寿を迎えた演出家の芝居を観られることはそうそうないだろう。今享受している幸せを見失うことなく、日々精進していきたい。

さて、前置きが長くなりましたが、横浜ボートシアターは今年も「日本間で聴く一葉」をやります。上で述べたような読書はこの公演のためではないのですが、丁寧な本の読み込みが樋口一葉作品の理解にも良い影響を及ぼしているように思います。

樋口一葉の素晴らしさは、人間を一歩引いたところから観る視点、言葉の面白さ・美しさ、語りにした時の音声的な面白さ、筋立て等々多岐に渡ると思っておりますが、原文が地の文とセリフが分かち書きされておらず、とかく難解だと思われやすい作家でもあります。しかし、語りで聴くと、実は非常にわかりやすい文体で、しかも魅力的であるということがよくわかります。ぜひ、一度生で横浜ボートシアターの語りを聴いてみてください!

2017年7月8日〜9日16時開演、場所は横浜「自在」南軽井沢稲葉邸です。

「日本間で聴く一葉」のWEBページはこちら。